肖像画の料金表

肖像画サイズと料金(油彩)

http://jp.fotolia.com/id/25615100
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  肖像画サイズと料金(油彩)                  

ミニアチュア超小型   描画指導無料                    0号 180*140mm 21000円~

sm 227*158mm 33000円~ 

3号 273*220mm 36000円~                    4号 333*248mm 46000円~           

6号 410*318mm 56000円~                 

8号 455*380mm 66000円~                

10号530*455mm 76000円~                 

                   

                      

以上は額付き(額は選べません)

(こちらの額ではなく額ご持参

使用は3000円引き)

通常技法料金(細密等特殊は加算)

これより大き目サイズは応談

技法により値下げ応談(印象派的・他)こちらは写真をもとにした遺影のお値段です。大切な人や働き手を失い予算等でお求めにくい方で本当に必要な方は、材料費のみでも描かせていただきますので、ご相談ください。

f4号の場合、顔をあまり小さくしたくないので帯揚げが少し出るくらいが良いと思います。

帯締めはf6号ならば、しっかりと入ります。                  

(ネットによる制作は原則承っておりませんが、ご事情により柔軟に対処します。ご質問、ご相談等もお受けします。

芸術論なども遠慮なくお聞かせ下さい。)                 

                 

                 

 上の画像はf4号油彩

詳細

 


肖像画サイズと料金(コンテ画)

http://jp.fotolia.com/id/16085899
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    肖像画サイズと料金(コンテ画)

インチ 255*203mm   34000円~

八つ  303*242mm   38000円~

太子  379*288mm   42000円~

七五  424*303mm   46000円~

四つ  424*348mm   50000円~

大衣  509*393mm   54000円~

半切  545*424mm   58000円~

以上は額付き(額は選べません)額御持参使用は2000円引き

これより大き目のサイズは応談

A4・A3など このみのサイズに対応

 ~サービス額付き

こちらもご事情により材料費のみでも可 

 

(寸法の数字は額の内寸。キャンバス・紙などの大きさになります)注文額・

高級額をお付けする場合は実費をいただきます。直接本人より描く場合は出張旅費のみ

加算させていただきます。写真からだけで描く場合は写真のクオリティーができあがりに影響します(写真撮影はサービスします)。注文期日内の小幅な修正は原則無料(二か月以内)

注文変更・大幅な修正(構図・衣服・等)は別途料金になります

詳細

  藁科肖像画房 055-963-6305 kouzan.w@rx.tnc.ne.jp

パステル・水彩・他 の料金

パステル画・水彩画はコンテ画の

二割増しになります

(アクリル画はアクリル樹脂の経年劣化

が明確でないので原則描きません)

 

左は超小型サイズ油彩

基底材の膨張収縮率が

少ないため長年月寿命

があると思われます 

こちらは、ラファエロですが、この作家が好きで

絵をはじめました。もちろんこの女の人がタイプ

でもありますが、(タイプではありますが、神様と浮気されたら困ります)これは母へのお供えとして描きました。

母は世界的な偉人賀川豊彦に見込まれ賀川先生の自宅に伺っていた通いの内弟子でしたが、その後を継ぐ予定を私が生まれてできなくしてしまいました。博愛集に及ぼす人でしたのに本当に私は自分の生まれたことを死ぬほど辛く思います。だからいま罰を受けているのでしょう。賀川豊彦はプロテスタント、ラファエロはカトリックちょっとミスマッチですが、無視して飾ってあります。

(for others, 世の為、他の為の精神を受けついていますので、絵の方は利益ではなく、ボランティア活動的です。)

   

 

ミニアチュア絵画油彩

顔のサイズが2.5cm位です


画面が6cm以下位ですが、目の良い人、手が震えない人で習いたい方は

 ご相談ください。

(原則無料)

 

 

 

 

 

 

   藁科肖像画房 055-963-6305  kouzan.w@rx.tnc.ne.jp

こちらは、油彩画です。小さいけれど相当モデルさんに似ています。

Nicholos Hillyarde    王女エリザベス   1605~1610頃    4.7×3.6cm

技法的には複雑です。(米国初代大統領ジョージ・ワシントンが1789年10月に描かれた、5×3.6cmの金の縁取りのある象牙に水彩で描いたミニアチュアがニューヨークの競売会社クリスティーズで、1210000ドルで落札されました。)                           

Hillyarde の奥さん アリス・ヒリアード(営業用ではない心が入っている様です。)

5×4cm位です。  1578年 ロンドン ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館蔵

 

Hillyarde 作   エリザベス女王の侍従? 1585年  5.0×4.1cm

ロンドン ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館蔵

(他のミニアチュールはギャラリー4の、国立肖像画美術館蔵の中に入れてあります。)

顔の向き・光線・目の向き

向き的にはこのぐらいが自然でしょうか。この絵を描かれた絵描きさんはあまり意識していないかもしれませんが、左右の目に微妙な序列をつけると落ち着くようです。

自分で写真撮影をされるときは、レンズに近い方にしっかりとピントを合わせると頭部の立体性が安定するようです。つまりそちらの目が顔の中の主役としてもその役割をはたします。

それが大体画面の中央にくるように配置すれば、収まります。

狩野元秀作      織田信長像   重文    愛知 長興寺

多少の寂寥たる面差しの感あると思いますが、これは、信長公ではなく、元秀の胸中と存じます。 

 

こちらの向かって右の目(左目)が前の絵より左目が強めなので安定します。

ただ、左(右目)のデッサンが適当のようです。視線をこちらにもらうのも良いでしょう。

豊臣秀吉像           重文   京都 高台寺

こちらに視線をもらってしまいました。途端になにか皮肉を言われそうです。

このとき絵描きの方が人間のレベルが低いとモデルの内面を認識(または感覚)できません。

向かって右の眼(左目)で私の心を見透かしているようです。撮影でも心が乱れる人があるかもしれません。心すべきことですが、絵描きは自分より上の

人格を持つ人間の内面を描くことは出来ません。(逆に描いてもらう人は自分より魂の格上の画家を探さなければなりません。)

一休宗純像   重文  東京国立博物館   15世紀後半  

一休宗純像  重文 京都 酬恩庵

光線については、これは撮影者の左後方に光源がありますが、十分な立体の再現性があります。描く時こういう光線を使うこともありますが、shadow部のマチエールが取りにくく、苦労することもあります。この構図の場合は撮影者(または描く人)の背中右後方の上方の光を調節すると良いでしょう。左45度からの光をキーライトとするなら、影になる部分のおさえの

フィルライトの光量を名画などを参考にして調節します。

Pierre Auguste Renoir     Portrait de Mlle Legrand   1875  81×60cm

視線が合わない形

                      フィラデルフィア美術館

                Mme Georges Charpentier   1877  46×38

視線が合わない形は何となく物足りなさがある。

画家が無念無想で描くと、モデルの内面がでることがあるかもしれません。

画家が自らの感受性を主体化すると、その作家のアートか、感想になるかもしれません。

こちらは、どちらでしょうか。

Andrew Wyeth    Maga's Daughter     (Tempera)  1966   67.3×76.8cm

上に比べて大変魅力的です。ワイエスと奥さんとの精神的関わりが画面に生気をもたらせています。これはTemperaです。

 

Michael Sweerts          Portrait of a Youfh    1655-61      39.4×34.8cm

モデルと画家の品格が天に愛でられた時に生まれる作品の様です。もう顔の向きなど関係ありません。      少しほめ過ぎてしまいましたので、気になる点を述べます。特に男の場合は、「口を開けたままではいけない、魂が抜けだすぞ!」と聞いたことがあります。

確かに、間が抜けた感じ、だらしない感じになります。人物画としては良いですが、長年掛けておく肖像としてはどうでしょうか。    Roscoe and Margaret Oakes Collection

P A Renoir        Mlle Irene D Anvers   1880 65×54cm

横向き。可愛いのでどういう向きでもok.

                   チューリヒ ビュールレ財団 

 

James Mac Neill Whistler    灰色と黒のアレンジメント・母の肖像 1871 144.1×162.6

横向き .どちらを向いても悲しい。

                    パリ オルセー美術館

Hans Holbein         Erasmus        1524     42×32cm   Musee du Louvre,Paris

プロフィールでの肖像もErasmusなら素晴らしい。

Amedeo Modigliani        Portrait of Jeanne Hebuterne Seated in Profile    1918

これが多分アートなのでしょう。この横向きは妊娠を表すと論評などにもありますが、

Modigianiの、あくまで芸術性を追求した流れの中の肖像になります。

Pierre Auguste Renoir       Mlle Romaine Lacaux   1864   81×65

正面 。やっぱりこれが良い。

                   クリーブランド美術館

Pierre-Auguste Renoir   Mlle Georgette Charpentier assise  1876  99×71cm

空間を十分とると絵画的です。    ブリヂストン美術館

Pierre Auguste Renoir     Mme Josse Bernheim-Jeune et son Fis Henry

夫人は目をそらせている。アンリも注視していない。

ルノワールなんか嫌いと感じている様。疎外感。

Sir Anthony Van Dyck      Marie Claire de Croy,Duchess d'Havre,and Chid   1634

上下が欠けてしまいましたが、それでも、ルノワールの口直しに十分なります。

         208.9×124cm    Roscoe and Margarel Oakes Collection

Jacques Louis David     PORTRAIT DE Mme SERIZIAT ET DE SON FILS    1795

131×96cm         Musee du Louvre, Paris

 

Agnolo Bronzino     Toledoのエレオノーラと子息  1545  117×96.5cm

世界で最も偉大な公式肖像画の傑作の一つだそうです。様式的な品格を感じられますが、現代的な実物感を求める人とは別路線です。日本のコンテ画なども昔からの形を世襲します。

               Gallria degli  Uffizi  Firenze

F Boucher       Pompadour侯夫人像   1758    213×165cm

趣味趣向生活など感じさせる描き方もあります。   

 

Vincent Van Gogh       Joseph Etienne Roulin         1889            Barnes Foundation

天頂部を広くとった画像は圧迫感がなく部屋にマッチしやすいかもしれません。

 

Tiziano Vecello    Ritratto Di Filippo Ⅱ  1556年頃 109.2×95.2cm

横目過ぎるとどうでしょうか?   こちらは本人の手に渡っていないそうですが、Tiziano としては、販売用ではない感じです。

Tiziano Vecellio     Ritratto diovane in Pelliccia   1515   82.3×71.1

さすがはTizianoと思わせる作品。モデルに人間的魅力があれば、目をそらしていても絵になります。                   The Fric Collection,New York

Andrew Wyeth         Siri      1970     76.2×77.5  Tempera

目が合いませんが何故か魅力的です。この原画は大変天頂部を広くとってあります。そのため、肖像というより、美術品としても魅力があります。  これは、光に命を感じられるので、多分自然光のような気がします。        Brandywin River Museum

Paul Cezanne    Woman in a Green Hat(Madame Cezanne)   1895

こちらは純粋な肖像というより、芸術表現に片寄りかけている感じでしょうか。

顔の重要性も部分のなかに取り込まれてしまいそうです。

セザンヌの写真からの自画像のようです。   芸術新潮  特集 セザンヌの神話崩しより

これをなんと解釈するか、唯々酷いということでしょうか?比率的には見たとおり、非常に狂っています。この写真から受けた自分のイメージを芸術的に表現しようとしたとしたら的を得てはいないかもしれません。デフォルメの気配も無いような感じです。

でも気持ちの方向性としては何となくセザンヌのやりたいことを理解できそうです。

なんか自分の弱点を逆手に取って芸術の道を開花させる、最初の発端の一つでしょう。

Charles Joshus Chaplin         Souvenirs     

フランスの古い画像よりの転写

口元に扇子を当て優雅な感じを出していますが、ずっと掛けておくにはポーズ的にはどうでしょうか。見る人が疲れるかもしれません。

Peter Lely         オービニー公爵夫人ルイーズ・ルネ・ド・ブナンコエ・ド・ケルアール

         1670    122×102cm    j・ポール・ゲッティ美術館蔵

遠くに景色を入れるととても良い感じになることがあります。ポーズもグッド。

Peter Leley   ネル・グウィン像・聖アルバヌス幼少公の二人肖像  

国王の側室になられた方のようで、ビーナスに扮し、国王との子供を天使として描かれているようです。 ケント・チディングストーン城、デニス・エール・ボワー・コレクション

Thomas Gainsborough     シェリダン夫人エリザベス・リンリー 1786 220×154cm

Andrew W.Mellon Collection      Washigton,D.C  National・Gallery

素晴らしい風景が描ければ人物の魅力も増幅します。

リンリーというけれど、倫理的ではない人みたいです。

この絵の解説では、二人の男が決闘してまで手に入れた魅力ある者の表現としてこの風景を描き添えた画家のことを書いていますが、どうも少し踏み込んで考えるならば、その逆もあり得るのではないかと感じます。私も心の悪い某理事長の肖像の相談を受けたことがありますが、

もろにその理事長の精神が絵にでるならこんなに醜いものはありません。顔立ちの造作の良しあしにかかわらず、穢れた精神の人間の顔ほど世の中に汚らしいものはないでしょう。それを描かなくてもよかったことは、天が守ってくれたのかもしれません。こちらの夫人の絵はその心を表現しないため、また隠蔽するため美しい風景の中に吸収埋没させた可能性も絶対ないとは言えないかもしれません。多分私ならそういう方法も考えます。

Hieronymus boss   十字架を担うキリスト  1515  77×84cm ゲント美術館

こちらは肖像ではありませんが。この様な見苦しい汚らしい精神を持った人間はいまだに沢山存在します。この様なものどもを美化したり立派に素晴らしく絵にすることは、いくら仕事と雖も天に対して罪を犯していることと同意であると痛感します。悲しいことです。

私はあまりテレビは好きでありませんが、また汚いものを見てしまいました。東京都の議場ですが、自分は部外者ですので義憤を感じても仕方ないことではありますが、都民の代表に対して馬喰言葉のような非礼な無礼な最低のヤジを都議が発しているのを聞きました。このような塵以下のこの世に存在してはいけないような汚らわしい者を何故都民が選んだか腹立たしい限りです。これが頭の黒いネズミであると、理解しました。多分このテレビを見た日本国中の人が私と同感であったと感じます。都政をひいては日本国を汚す悪幹事長とその一味を助さん角さんが成敗してくれたらテレビを見た人の溜飲が下がることでしょう。この様なネズミは死んでも描きたくないと思いました。神仏がいるならば、この様なごみ以下の者には激しく鉄槌を食らわせなければなりません。シリアの大統領にもです。勿論もちろん電通のトップも許されざるごみ以下のものです。自分達の末端の従順且つ真面目な弱い立場の配下を自分達の利益の為に殺したのですから、その罪はどんなに償っても未来永劫に許される事はありません。

空海の「三教指帰」の一節が浮かびました。「其の羽族は即ち諂い、讒諛、誹謗、麤悪、噂たう、嚾伮、蘧篨、悪作あり。翅を整えて道に欺き、高くはうつて楽に赴く。四倒の浦にほうくわうとののしり、十悪の沢に沸つきとはたたきす。正直の菱を彫琢とついばみ、廉潔のあふひ(葵)を唼てふとついばむ。鳳を見、鸞を見、仰いで予め赫々たり。鼠をとり、犬をとって、俯して即ち昨咋たり。且は飛び、且は鳴いて現前の潤屋を営み、或は痛み、或は死して未来の苦酷を忘る。豈に和むや、鴈門の坂には繊羅張り列らね、昆明の池には沾徽普く設け、更嬴が箭は前に来って首を砕き、養由が弤は後へ放って血を流すといふことを。~」

 (一番悪い事は、悪い事をしていても、悪いと感じないことでしょう。ポルポト然り、バッシャール・アル・アサド然り、自分よりも弱い者を傷つけ殺すごみども、あまりにも多過ぎます。しかし、死の世界に入った時、罪と罰はその魂に融着するような気がします。確か、一休禅師が「現世において罰を受けるか、来世に亘るかいずれ受けることを知れ!」と賊に一喝した話を聞いたことがあります。私も生死をこえた超物理的な流れの中にその現象は垣間見られる様に感じます。)「因果応報」。老子「天網恢恢、疎而不失」。

 

2016年11月~12月

Gericault  Fou ASSASSIN  1822  61×51cm  Museum voor Schone Kunsten,Gent

何が描かれているかお分かりでしょうか。黒い頭のネズミとはまた種類の違った悪党です。

この表現力がないと、本質は描けません。もっと踏み込める名人もいるかもしれません。

本当に醜いもの(有形無形を含む)を描ききるだけの力がなければ、真に美しいものも描けないかもしれません。前言を翻す様ですが、ここで反省します。美しいものや立派なものだけに心を向けることは本質から逃げる行為でしょうか?そう、芸術家としては半分失格でしょう。

ルノワールがベラスケスに勝てない理由の一つのようです。個人の芸術の方向性ではありません。ルノワールの可愛さが(フラゴナールなどを含む)大人の観念を拠り所とする相対的な存在ならばベラスケスのものはそれ自体が厳然として他を頼ることのない絶対的な存在のような気がします。Vladimir Horowitz が演奏の時(前後かは忘れましたが)傍にいた奥さんに「自分の演奏はどうなのだろう?」と聞いたことがあります。「最近の演奏家のことはわからないのでどう思う?」と言われましたが、奥さんは「あなたはもう相対的な評価は要らないのでは」と言われ、Horowitu は「では絶対評価で良しとしよう」というような会話を思い出しました。なんの芸術でも相対的な関わりをもっている間は超一流ではないのでしょう。

また、作品自体が強い芯を持っている様感じるのは、一つのことに住着しない、我執を捨て偏らずに、判断せずに、あるがままに受け入れる(彼にはある秘密があったそうですが)、

大きさがあったようです。まことに羨ましく感じます。

Diego Velazquez     LA INFANTA MARGARITA  LOS TRES?   1654    128.5×100cm

Kunsthistorisches Museum Wien

 

 

Gericault  LA FOLLE   1823   77×64.5cm    Musee du Louvre,Paris

この世の本質に自分の魂を感応させる戦いです。gericaultは立派です。

 

Hans Holbein    ヘンリー8世  1537  27.5×19cm

トマス・モアを死に追いやった悪党です。本物の作品は頭の黒いネズミを遥かに凌ぐ汚らしい精神を表しているでしょうか?。装身具は金で描かれているとのことです。

立派な出来栄えの中に逃げずに腐った魂を描きこむ、これが本当の画家かもしれません。 

ホルベインは挑戦してるでしょうか。でもよく見たら大分緩んでいます。踏み込んでいくのは怖いでしょう。また、自分の利益にもならない。「百尺竿頭進一歩」これも子供のころからの記憶に残る言葉ですが、私は未だこの域に達しておりません。一歩とは死ぬことを意味している様ですが、知らずに一歩ではなく、悟りきった上の損得を捨てた一歩でしょうか。某宗教で爆弾を身にまとい、大勢の人々の中に突入して自分諸共殺害する。その行為は神のもとに行く自らの利益としての死で、百尺竿頭とは似て非なるものかもしれません。『百尺竿頭に一歩を進め、十方世界に全身を現ずべし』私がいつも読む経文に『自他法界同利益』とありますが、この『自』を死ぬ気で吹き飛ばした所に出発点が現然として立ち現れるかもしれません。まだ『自』に惑わされている間は全然ダメでしょう。(これは自戒)

『自は滅すべきもの、然り乍ら自がなければ何も出来ない』←ここも行間を読んでください。

最新(2018年)のアメリカ医学の実験では自分の利を後回しにする人は小脳偏桃体がだいぶ大きくなっているそうですが利己的な人はそうならないそうです。天から与えられた大切な物を生かせない人間がいかに多いか、この数の増加が人間の末路をあらわすと思います。 

(現代の大乗仏教は、逡巡しているでしょうか、或いは死んでいるでしょうか?葬式仏教に凝り固まっているのをお釈迦様が見たら泣かれると思います。『諸悪莫作・衆善奉行』これを衆生に教えるのが今の仏教の最も必要な働きのように思います。お寺の奥に引きこもって偉そうなことを言っている様では何の価値もありません。)    願わくば、この腐った精神の国王の本質を描きだし、泰然として死につく芸術家たらんと欲します。「笑而就死湊川津」大楠公 河野天籟 (しかしながら、こいつ最低の野郎だなと思ったら、多分手が動かないような気がします。そう言えば何人かの画家に描かせたが気に入ったものができない人がおられる様です。そんな人は知らずに先生方に不快な印象を与えているのでしょう。顔色に出さなくとも、腹の中に怒りが溜まると腕の立つ先生なら作品の状態に何らかの形で影響するかもしれません。素晴らしい先生にお願いしても気に入らない作品しかできないという原因は注文者自身にも原因があるのでしょう。態度だけでなく、「描かせてやる」という上から目線でも結果は良くないと思います。それを防ぐのは第三者、業者が中間に立ってくれることですが今は少ない様です。最後に急にレベルが下がってしまいました。)

Je pense que Les êtres humains doivent  sentir leur propre saleté et  la reconnaître avec précision.

Si d'autres le représent, il devrait être très agréable.            k.w

(人間は、自分の穢れを感じ、それを正確に認識しなければいけない様に思います。

他者が、それを表してくれるなら、非常に喜ぶべき事と言えるでしょう。)

ルガーノ ティッセン ボルネミッサ コレクション

 

Henri Matisse     Madame Matiss       1907    99.4×80.5cm

素人が真似をするとチンドン屋になりそうな配色でもマチスのテクニックでcubismとは違った装飾性を表しているようです。でも計算の入った実験的な試みもあるかもしれません。補色の比率、後退色の扱い、視認性の良いものをどこに持っていくかなどcubismに対するエネルギーがこれを描かせたかもしれません。昔あった卓越したデッサン力の名残りが見えているようです。マダムマチスはこれを気に入っているかわかりません。

Picasso    ドラ・マール像   1937

この時はとても良い感じです。

ピカソは根底に具象画としての骨格 を持っているようなので、純粋な抽象画としてではなく、ほかの具象画と一緒に並べてみました。あまり違和感はないと思います。

Picasso    マリー・テレーズ像   1937

とても良いモデルさんだそうです。よくわかります。ピカソにはもったいないです。この様なジャンルの物もご所望ならば。ただこの様な描き方の場合、顔料を基底層に対して並列に並べている、出来て50年や100年は美術品として楽しめるがそれは全てを顔料の堅牢度に頼っている、安い材料を使えば忽ちその命を失うでしょう。また高価なしっかりしたものでも劣化が始まればなすすべはないでしょう。基底材が岩盤でそれに顔料が同化しない限りは。

それに対してフアン・アイクのものなどメンテナンスはあっても、軽く600年を超えます、

早晩(と言っても百年単位?もっと早い?)美術品の価値の変化があるかもしれません。

ピカソ 泣く女

珍しく?ピカソがわからないと言う人がいましたので説明します。これで一発でわかると思います。こちらは、泣いているところですが、何故泣いているかと言うと、こちらは、古くなった愛人で、新しいオニュウの愛人が来るのでお払い箱になったようです。ピカソはこれを見て

「これはいい画題が見つかった。こいつを描いて金にしよう」と利用したのでしょう。

本当に悪い奴ですね。穢れた芸術でも絵自体が強いので、金になります。

十年くらいで画風を変えていった様ですが、売れ足が落ちないよう、カーンワイラーに言われたかもしれなせん。

梅原龍三郎    艶子夫人像   1914年   72.0×60.2cm  

絵画的でルノワールが褒めてくれるでしょうか?でも写真そっくりの肖像画、銀粒子を或いは染料インクを克明に絵の具の粒子に置き換えてそっくりの画像に仕上げ無機的な写真の転写に過ぎないものに比べればその価値は推して知るべしです。イタリアのバイオリン制作者が「正確なものは芸術ではない」と明言をされていました。装飾的ですので、置き場所を選びません。このようなものも欲しい方には、描き方のお手伝いもさせて頂きます。(正統的の物も)

純然たる肖像画、美術画、風景画、静物画、構想画など含めて、遠方の方でお越しいただけない場合は Skype でも対応できます。その場合はカメラの価格や画素数にかかわらずシャープな画像の再現できるスカイプ用カメラが必要です。色彩的には十分でない可能性があります。

萬鉄五郎    登美像   1923年    73×53cm    岩手県立博物館

肖像的というより絵画的でしょうか。鉄五郎としてはすごく真摯に描いている様です。何か心に強く犇々と響いてくるものがありますが、三年後の悲しみを時空を超えて天が暗示しているように思えます。この絵を見た感想は、ショパンのワルツOp.64の2 嬰ハ短調を弾いた時の気持ちと似た部分がある様感じます。私も虚しいです。

萬鉄五郎   自画像  1912年   60.7×45.5cm   岩手県立博物館

上掲の絵のあとにこれを描いたなら分かりますがこの方がずっと早いようです。

純粋に芸術性への挑戦でしょうが、求める方向は違いますが、徳川家康の生涯の戒めとして使った顰像(一説には家康ではない)など人物肖像の役割は多彩です。

Tiziano Vecellio     Ritratto di Donna(la bella)     1536   100×75cm

この角度です。

キーライトは画家の後方左45°より中央寄り.仰角はキャッチアイを確認しながら探ります。  天頂部はやや狭目ですが、絵のイメージ的には合っているようです。年配の男性の場合はその幅が狭いと圧迫感があります。余白の重要性を計算しないで画面いっぱいに描くと迫力ではなく窮屈感がでます。日本画でも洋画でも余白がものをいっているようです。結果、部屋もこせついた落ち着かない印象になることがあります。1cmで変化するデリケートな部分です。  単純に何センチが良いということではなく、相対的な絵の構成の比率です。                                                                       Gallria Palationd Pitti Firenze

Pierre Auguste Renoir     Fernand Halphen enfant      1880  46×38cm

キャッチアイの話が出たのでこちらも説明します。主光源は中央寄りですがそちらとは逆方向に大きなキャッチアイが入っています。小さ目と大き目の二つのキャッチアイがあり小さい方が主光源のような気がします。鼻の頭にも本物は大小二つのハイライトが入っています。

1840年ごろには写真がもう使われ始め、そのテクニックも十分の進歩がみられるようです。

キャッチアイだけの光源とも考えられます。ご自分で撮影されるかたは、目に潤いを与えるために アンブレラやレフ板のようなものも試されると面白いでしょう。涙腺や下瞼と目の接するところにも微細なハイライトを入れますが、相当難しいかもしれません。Musee d'Orsay

 

 

Anthony Van Dyck    self portrait   

このportraitが一番Van Dyckの本質が現れているかもしれません。素晴らしい人です。

 

Tiziano Vecellio        Ritratto D'Uomo    1512     81.2×66.3cm

横目でもモデルに品があれば良い?  Anton Van Dyck も一時所有していた名作。

Peter・Paul・Rubens           self portrait

横目の追加。ルーベンスだから良い感じですが、教養のないミーハーが真似したら見苦しさだけの代物になるような気がします。彼は画家であるだけでなく、偉大な外交官として、大変な功績をあげ、イギリスのチャールズ一世、スペインのフェリーぺ四世からもナイトの称号を受けているそうです。自分や家庭を犠牲にしてまで、国家のために尽くした人のようです。

写真にはでなくとも最高の絵画にはその人物の深い人間性を内包されることがあるので、心を洗い、高めて、それに見合う自分を作り上げる努力が出来れば、幸せな事かもしれません。

勿論ルーベンスは努力せずとも本来的にそういう人なのでしょう。

Royal household collection  ,London

鏡からですので、主役の右目が左目でしょう。キーライトは大分中央寄り。

P. P.Rubens     エレーナ・フルマン像  1638         ウイーン 文化史博物館

二番目の奥さんだそうです。神様からご褒美に頂いたかもしれません。

P.P.Rubens      1618            Vaduz Liechtenstein collection

Rubensの筆触が少しわかると思います。

Albrecht Durer    self portrait     1498   52×41.5cm      Madrid プラド美術館蔵

横目ですが、素晴らしいです。ルネッサンスの最大の画家を入れないわけにはいきません。

この格調、被写界深度の深さ、良いモデルさんに縁があったら、挑戦したい画境です。

 向かって右(左頬に)フィルライトではなく、バックライト的なものが入っています。

デューラーの13歳のときの自画像  1484年  シルバーポイント(銀尖筆)

コーティングされた紙       ウィーン アルベルティーナ版画素描収集蔵

 

 

ジャック・ルイ・ダヴィッド    ナポレオン像  1812   204×125cm

 

 

David   Portrait DE Mme RECAMIER  1800  173×243cm Musee du Louvre,Paris

前掲のナポレオンは仕上がった状態ですがこちらは描きかけです。人物は大体できている様ですが、背景や調度品は仕上げ前です。かえってそれにより、ダビッドの生きた筆さばきを鑑賞できます。一流の画家は描いている途中でいつ死んでもその作品が鑑賞にたえるように心構えをしています。

 

Frans Hals       Nicolaes Hasselaer        79.5×66.5cm Amsterdam,Rijksmuseum

 Frans Halsの絵は、美術館で離れた所からちらっと一瞬見ただけでハルスとわかります。

筆さばきのスピードや特徴がほかの人と異質です。というか、他の人はここからひと塗り二塗り以上していると思います。ダビットなども下塗りから描きこみに入る前は随分速いと思います。なので、飾る場所などによっては、退色があるようです。(いくつか見ました)ただこういう欠点があっても絵の具が新鮮な色を保っている間は、印象派的なみずみずしさを感じると思います。そのためファンも多かった様です。闊達に筆が滑り、美しい色に、施主が我慢できずに「もういいからこの絵もらっていく!」。それだと、画家が困ることがあります。

Hendrick ten Oever      Joannes Vollenhove,Poet and Priest   1687

Poet and Priest といいながらあまり良い感じがしません。どこに原因があるのでしょうか?

このいやな感じは画家もモデルも認めている本物のような気がします。「過不足なく描いてくれ」。それが今でも外国の人の気持ちの主流でしょう。ところが、今の日本人は(昔は違いますが)、上辺だけのきれいごとを求め、「綺麗に描いて」、「いい男に描いて」、「立派に描いて」、「感じよく描いて」、いやなことは目をつぶり、不快なことを排除し、口当たりの良い、自分の喜び、幸せ、の為に本質から逃避する、それは、偽りの中に生きている、自分の利益絶対の、俗物、ミーハー、悪党に顕著にみられる特徴のようです。塵どもが生まれてしまう土壌はここにもあるようです。(熟熟考えてみると日本独特のもののようで、その元凶、発祥のもとは選挙ポスターにもあるような気がします。候補者がいい顔を見せて、良い人でもないのにいい人ぶったり、善人顔をしてみせて笑顔を作り、有権者に媚びを売りまくっている見るに堪えないいやらしいポスターの数々。誰もそれを見て不思議に思わないなら日本人の箍が緩んでいるということでしょうか。既に言いえている、道元禅師の正法眼蔵よりの類推を試みてください。「大宋国むかしよりこの因縁を画せんとするに、身に画し、心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたずらに筆頭に画するに、法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま竜樹の身現円月相とせり。すでに数百歳の霜華も開落して、人眼の金屑をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あわれむべし、万事の蹉陀たることかくのごときなる。」-間違って描いたので人を誤るものとなろうとしていますが、それを間違っているという人もありません。気の毒なことです。-筑摩書房 玉城康四郎編集 道元集より。)でもうちの生徒さんが自画像を、ヘップバーンよりも、エリザベス・テーラーよりも、山本富士子よりも、いい女に描いても私は何も言いません。

Zwolle,Provinciaal Overijssels Museum    (on loan from the Rijksmuseum,Amsterdam)

似たようなことをフランスの哲学者Denis Diderot 1707~1771が言われていたようです。

Diderotは、真実を犠牲にしてまでもモデルを美化しようとした当時の肖像画家たちの傾向を非難したにもかかわらず、彼の友人である、ヴァン・ローが彼の肖像画を描いたときDiderotを「物欲しげな視線で微笑み、気取って、未だに愛想を振りまく年増のあだっぽい女のように描きだした。姿勢は国家の秘書官のそれであり、哲学者のものではない」ととがめたのである。

Vincent Pomaréde  (この短文の文章はネットよりの受け売りです。)

(私が自画像をかいたら、長谷川一夫よりアランドロンよりいい男にかくかもしれません。)

Gerard van Honthorst    Margareta Maria de Roodere and her Parents   1652

Honthorstに習っていたMariaが父親の肖像を描いたところを母親も加えてHonthorstが

描いたとの事らしいです。        142×168.2cm                                            The Hague,Rijksdienst Beeldende kunst

Gustav Klimt     Bildnis Adele Bloch-Bauer    1907  138×138cm    Osterreichische Galerie,Wien

装飾性満点のものです。金箔です。なのでこの絵が美術館に来ると学芸員は大変でしょう。ホルベインの金は安定しているようです。

Gustav Klimt       Bildnis Margaret Stonborough Wittgenstein    1905   180×90cm

Neue Pinakothek,Munchen

こちらの絵はどうも施主が気に入らなかったようです。何となくわかります。

 

 

TRACER  アクリル絵の具

こちらはA3サイズ,LED,tracer,です。デッサンの苦手な生徒さんの為にいれてみました。

A3のプリンターで必要サイズに拡大して、あとはトレースするだけです。ただ、「トレースは何千枚描いても絵はうまくならない」と、さいとうなおき先生がYouTubeで、おっしゃられております。先生の講義はほかに類がない素晴らしいものですので、イラストとジャンルはちがいますが、是非拝聴されることをお勧めいたします。特に生徒さんには絶対お勧めです。さいとうなおきさんは絶対ですが、もうひとかた素晴らしい方がおられます。ウニアトリエの加藤先生です。ウニアトリエというのでそこに入ると、うにを食べさせてくれると思ったら全然違うようです。それはさておき、私はある種の職人の免許証を持っているので、先生の教え方がとてもよくわかります。先生の教授はまさに職人そのものです。重要な部分は言葉にならないので、体で盗み取れ。これが職人です。先生が素晴らしい技術をYouTubeで提示されているのですから、喜んで拝受をさせていただけば生徒さんも格段に腕が上がると思います。お二方の先生に心より感謝いたします。  写真を正確に描く事は芸術ではない、ことはわかりますが、写真からの転写術として確立した方法がいくつかあります。これは、紙への転写ですので、この後、鉛筆、パステル、水彩などをのせられます、コーティングすれば油も考えられます。表面が平な場合、パンタグラフなどもあります。

 

紙へのコーティングについて、アクリル絵の具で描いてから油で描く人もある様ですが、

イースタンミシガン大学のフランクN・ジョーンズ教授が「アクリル絵の具は一般に油絵具よりも食い付き歯が多くあるのでアクリル画に油絵具を塗り重ねることは可能であるが、潜在的な問題がないわけではない。アクリル絵の具については、現在の情報からは〔p(nBA/MMA)]共重合体で作られた専門家用絵の具は長寿命の絵画を作るには十分であると思われる。但し実際には、画家や修復家はその百年にも満たない歴史という観点から長期耐久性に懸念を抱いており、剥離、ひび割れ、崩壊などの様々な損傷が出始めている。アクリル絵画はこの後大量の損傷が起こるかもしれないと推測される。」と書かれている。勿論メーカーに言わせれば否定することではあるが、私がアクリルをすすめられない原因の一つです。

 

透写できない基底材にはOHPなど投影機の使用も多いようです。(目が結構疲れるようです)

 

 

 

着服図法

 人物の基本                        ルーブル美術館蔵

着服図法は本格的な洋画だけでなく、日本画でも行われていて、丸山応挙の教えも残っています。「人物ヲ画ニ先骨法ヲ定 次ニ衣装ヲ付ヘシ」これは基本中の基本ではあるが、行われないことも多いようです。中央展や高級アマチュアなどの作品を見ると非常にうまく描けているのになにかしっくりこない場合はこのことが関係しているかもしれません。頭から延髄そして背骨、骨盤それが確実に正確につながっていることを確認せずに衣類を付けてもおかしなことになってしまいます。勿論上体だけの肖像画も不自然なことになります。これは、意識的に名画を見るとき確認するとアマチュアとの違いがわかります。

寸評

Schubertの音楽の中には、心地の良くない不快の部分が閉じ込められている様です。

絵画でも、それがなく快だけでは深くはないのでしょう。用途にもよりますが。

山田風太郎氏の言う「日本人の特性は軽薄である」。と指摘されているような昨今の人間は、

それを理解できないかもしれません。日本自体が更に軽薄になってきているようで、

悲しく感じます。