藁科肖像画房

http://jp.fotolia.com/id/26905760
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  肖像画 (一家の根幹)

お写真は紫外線などに弱く大事なお写真は

光に当てない様に保存し掛額は手描きの画

が安心です(油彩画等は600年以上の寿命)

お写真から描く場合はそのクォリティーが

出来上がりに大変影響します

 昔の人は若い頃から自分の画像の良い

物を意識的に残していた様です 今の人は

そういう心構えが無いので困る事がよく

あります(正面ストロボ写真は不可)

理想的には実物からのデッサンなどができ

ればより良いものができます

 また遺影(葬儀に使った物)などを

そのまま掛けておく事は故人に失礼

ですし(葬儀を引きずっている)白木の

位牌を塗り位牌に変えると同時に

葬儀社の写真を画にすべきでしょう

沼津市末広町213

藁科肖像画房

藁科甲山 

略歴

IAC美術会展。現創展。他各展各賞受賞

フランス。パリ。ル・サロン。太陽美術展

県展ほか入選 ロシア・エルミタージュ美術館

よりの招聘辞退。イタリア。フィレンツェ。ウフィツィ

美術館に寄付。マルサン書店於長期展示。地球堂ギャラリー

於展示。江原素六肖像画写。市長肖像画。他。美術館買上

元現代創像美術協会会員。IAC初代静岡県支部長 

 (サンクトペテルブルクへのお誘いは、介護が始まりつつありましたので、

非常に光栄ではありましたが、丁重に辞退させていただきました。

 Quindi e la donazione di Museo degli Uffizi ,che ha donato la pittura invece di,  at che tempo,dist rutte la Gal leria degl i Uffizi da estremist, ha i suoi cost i di riparazione come una, piccola donazione abbiamo inviato all' Ambasciata d' Italia.)  

 

 

         右上の画像は東京都美術館にての受賞作

           p120号 油彩 等身大

 

静岡県公安委員会第491070522701号

交付平成24年11月26日

( URL akinokamiは昔、藤原氏の頃、安芸の守を拝領していたとの事で、          雅号 安芸の守藤原明水 より流用しました。)

 

 

Sculpture en mabre    Poids 30kg.

Quelqu‘ un pourquoi pas esquisser cette sculpture?

Je pense que des statues de marbre en plâtre met

aucune nuance de dessin.                           (mabreは、statue en plâtreにはないnuanceが、dessinに描き込めると思います)

Lent reprise détenue pqr

R,Santini

 

Ma non può essere di grezzo e un po' non elaborati da soli.

Sembra che questa immagine    Sembra avere una macchia grezza,

ma e anche anche un sottile appello potrebbe essere, 

L'azienda di proprietà di

Sculpture,Importé de France il y a plusieurs décennies

同じ型の大量生産式の安価なものですが、雰囲気は素敵です。

Signed Grinam Niam bust of French girl in bonnet and dress. For sale is this composite bust of a young girl in bonnet and dress, excellent condition. This is very heavy, some kind of stone.   Height is approximately 17 1/4"and width cs 10 1/4".  The piece weighs22.5lb and is signed on th back "Paris"with"Grinam Niam"below.

This is a classic French piece, showing a young, innocent, sweet French girl.

  L'ent reprise détenue par 

上の彫刻の描き始めです。ここまで、所要時間10分と少し位でしょうか。甲山

一生懸命です。

alabastrros -alfredo sarreal 

こちらも驚くほどお安いですが、私としては二食のごはんを一食に減らして生徒さんの為に求めましたので、上手に描いて下さい。(えっ!恩着せがましくていやらしい?)

実はこれ、本体と台座が接合部で破壊され上下二個にわれていました。接合部に付着した石を削り落とし綺麗に接着してみました。値段のことを言わなければ素敵でしょう?

Avinguda de La Conca 34,Sarral                     made in spain

 La firma propiedad de

経絡模型ですが、人物画専攻の生徒さんの人体の構造を知るために使います。

着衣像は裸体を基とし、裸体像は骨格を基とす。

これも生徒さんの、デッサン用です。誰か挑戦してみますか?

こちらは、関東大震災の業火を乗り越えてきたそうです。だから焦げてる?

lightlyに描いてみました。

 

弥陀三尊のつもりです。阿弥陀様が寂しそうな気がしたので脇侍の観音勢至を急いで彫ってみました。仏の三十二相は知っていますが、それは無視して、阿弥陀様の為に山で拾ってきた堅木で即席に作りました。彫刻は子供の頃は得意だったので簡単です。阿弥陀様が喜びそうに彫ったので、心持ちお顔が緩んでいるようです。

自作の駒です。左側の二つが標準的な薩摩の本黄楊ですが、明水号はこちらに使われています。右側の五つは、観音勢至像に使った材です。練習用ですので、大変に硬く、サイズも持ちやすい様に、大きさ、厚さ共標準の3~5mm位大き目にしてあります。技法は駒形に成形した後、彫り埋めにしました。金将が少し変ですが、まだ彫って埋めてありません。     (日本将棋連盟アマ四段免状と五段認定書があります。)

モデルさんたちです。みんな綺麗に描いてもらいたくて待っています。

裾野五竜の滝をスケッチしてきました。炎天下沼津から滝まで自転車で行ってきたので、相当疲れました。60分程度でやや完成。轟音が耳から離れません。額は丸藤さんより、わけていただきました。F4号油彩 個人蔵

三島市の鮎止の滝です。生徒さんのお世話をしながらなので、ここまで60分以上もかかってしまいました。起承転結にもう一品欲しいなと思っていたら、白鷺が飛んで来て「さあ!えがきなさい」。とポーズをしてくれました。一瞬で入りましたが、このことを、生徒さんは誰も知りません。   f3号  油彩

p3号  油彩

1ページ目で生徒さんのお世話をしていて仕上げできなかったものを、仕上げて額装してみました。昨今このやり方は一応常道の一つになっていますが、中川一政先生の話に、「アマチュアが私の家に日曜日に作品を持ちよって自ら批評会になった。皆、戸外写生であった。家へ帰ってから手を入れたものもある。手を入れない画はタッチが生きている。下手でも生き生きしている。手を入れたのは形は整っても死んでいる。」この様に言われていましたが、真にその通りです。今の日本人は上辺を取り繕う軽薄な人間が増えました。芸術に携わる者は、この違いを見抜く心眼が絶対必要です。私も心したいと思います。こちらの方は、生徒さんの見本ですので、崩さず楷書的に整えてみました。(見場良くまとまりましたが8%位死んでいるかもしれません。写真からのみ描いた場合はアマチュアで九割方以上死んでいるような気がします。プロはそれを判らない様にする技術を持っていますが、バブル期に100万円以上もした絵が現在5万円以下になっているのは、市場や顧客がその価値を見抜く目を得たということでしょうか?)キャンバスの青山さんの額です。

向こう側の赤い衣装の絵はp80号(受賞)ですが展覧会用に大分大雑把に描いてあります。

石膏デッサンは今まで日本で昔から一般に描かれていたものは正調ではない(シンプルではなく、意味を付けすぎる?既成概念の洗い直しは常に必要です。)とのことですので、ある程度きちんと描いてみました。石膏の質感がでなければ、失格です。

p80号 油彩

以前展覧会用に短時間で描いたもので、大分描きなぐっています。モデルさんも本物はとても柔和な人です。

紙にパステル

以前の会長、とても立派な方です。20分プラス仕上げ5分くらい。

モグラ族作品展(第一回)マルサン書店本店ギャラリー

2017年5月12~15日    

ご来場の方々は沼津市をはじめ各市のトップ、名士など、数百人に上る様です。(別の入り口よりのカウントできないご入場も多く正面でもカウントがたびたび途切れました。)

受付でこちら向きに腰掛けているのは、版画家で、当会OBのUさん

左側の方が二科展のSさん。右側がモグラ会長。向こう赤いドレス(東京都美術館にて受賞)この絵は肖像的な人間の内面ではなく、ある種の雰囲気としての表現を狙ったものです。

副会長  沼津市のもと重鎮

旦那さんもお子さんも応援していますこちらは老モグラ会のマドンナです。

絵の方も直向きに努力されている方です。

新進気鋭の若手。(欲がでると相当なアーティストになられそうす。)

(眼鏡のことは消しました。)以前の三島の会長H,Oさんです。ぜひ人物画協会会長になって下さい。

こちらの方も、旦那さんとお子さんが応援されています。志功さんの様に立派な芸術家になられることを期待しております。

元会員、版画家のUさん。

将棋の芹沢博文九段と同級生だそうです。将棋は強い?

三島のM,Oさん。

三島のY,Oさん。 他にもお二人お見えになりましたが、写真に顔の皺が写るのが嫌とのことで

撮影できませんでした。(しは三十二本でも、絵にかけば全部消すことができます。)

Nさんのコーナー

うちでは両親の介護の為、名誉も、財産もすべて捨てたので、お金は全然ありませんが、でもゴキブリは大変多いのでいつの間にか絵の中にも入ってしまいます。モグラ族にミミズと、芋虫と、青虫は生で、ワンカジリはすぐ逃げるので空揚げにして食べてもらいます。ベランダにいた蜥蜴がゴキブリを捕まえてパリパリおいしそうに食べていましたので、期待して下さい。

いつもは¥98円以上のケーキは買いませんがこの時は絵にかく為に、清水の舞台から飛び降りたつもりで¥200円以上もするのを買ってしまいました。(安価な食品は有害物質が含まれているそうです。)私は介護のため倒れたことも、頭がおかしくなった事もあります。それでも神、或いは天から「あと百年介護をしなさい」と言われたとしても喜んで指示に従う覚悟でした。なので天涯孤独になった今、自分のためだけに生きるのがこんなに辛いこととは思いませんでした。そういう人間ですので、たとえお金はなくともご飯を減らしてでも、生徒さんのために、モチーフを買ってあげます。冷蔵庫や洗濯機や掃除機も十年以上壊れたままです。食品の保存に困るので、夏場は日干し物です。そのためゴキブリが多いのかもしれません。18年の夏はあまりにも熱いので、魚に塩をきかせ過ぎたら口がひん曲がるほど塩辛く2週間以上も皿に乗せて出しっぱなしですが、腐りません。ゴキブリも避けて通ります。暖房も客のいない時はつけません。そして、この元気に動いているのは私ではなく、下画像の倒れているのが私の様な気がします。あっ!そういえば、18年の秋は食中毒で倒れて2週間寝たきりでした。このゴキブリが自画像のようです。も一つ新しい情報です。アメリカでゴキブリ大食い選手権があったそうですが、チャンピオンになった人が亡くなられたそうです。美味しいからとあまり食べない方がいいかもしれません。

もう一つ、生の蛞蝓も食べない方がよいらしいです。オーストラリアで庭にいた蛞蝓を生きている奴をそのまま食べてしまったら、寄生虫に感染して1年後の2018年に亡くなられたそうです。私もひもじくてもゴキブリと蛞蝓は食べません。でんでんむしも。

すぐ出てくるのでデッサンしようとするのですが、あっちに行ったりこっちに来たりして描きにくいのでスプレーしたらこんなになってしまいました・これはアートでしょうか?然もあれ

不快で不潔なインパクトが感じられればOKです。生意気な人間が天より真理を知らしめられた時の姿、いや、ある意味人間そのものの姿にも感じられます。これが増えたことよりも、自己中心的な、利己的な、これ以下の人間が増え過ぎたことに心を痛めます。

Johann Christoph Jriedrich Friedrich von Schiller (1759~1805)

Freude trinken alle Wesen an den Brusten der natur,alle Guten,alle Bosen folgen ihrer

Rosenspur. (すべての生き物は自然の乳房より、歓喜を飲む、そして良い者、悪い者も、

すべて、薔薇色の跡をつけていく。)第九をうたう方はご存知でしょうが、歓喜に寄すの抜粋

です。子供のころからのいまだ解せない疑問ですが、神は人間に対する愛と同等の愛を虫けらにも与えているかもしれません。ならばこの虫も神の愛の中に生きていたのでしょうか?

 (少しだけ涙が滲みます。)

 

Fatto in scultura Italia         A SANTINI

Non e attualmente producendo st at ue

Questa statua e come la maggior parte delle strade in Giappone.

L'azienda di proprietà di

Skulptur aus Deutschland             Holzschnitzereien

Irgendwie mag es deutsche Tapferkeit fühlen.

Sammlung in unserem Büo

富士山について

老モグラ族会長が富士山のauthorityになられるとのことで、こちらをお送りいたします。

及川康夫  昭和17年正月  富士吉田にて。 

この作品がなぜか一時的に当方にあります。小品ですが、一目見て気に入ってしまいました。

(東京芸大の卒業生だそうですが、芸大より頂いた書籍には亡くなられた年は不明です。)

「正確なものは芸術ではない。」という様な事を何処かに書いた気がしますが、それは逆説と理解してください。この正確なデッサンの中に描いた人の心が充満しています。

まるで最高のマエストロの、音符に忠実でありながら素晴らしい心を感じられる演奏の   ようです。(pardox)

比較の為に、和田栄作、梅原龍三郎。

 

 

和田栄作 河口湖よりの富士    1926   鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

氷点下に体を晒されることによって得られる宝。写真を撮ってきてぬくぬくと、暖房の効いた

部屋で、それを描く人間は死ぬべきです。

絵が言葉を失う時

それから、絵もあまりにも精密に描きすぎると、何も語らなくなるようです。

どのラインからその傾向が出るか、はっきりした数字は知りませんが、写真撮影でも多少のラフさが画面にあった方が伝えたい事を発揮できます。ルノアールの本物は何年掛けてあっても素晴らしいですが、写実の極の様な絵や写真は10日も見ればもう結構ということになります。

何も絵が芸術的語らいを持っていない様です。アマチュアはここを誤解しない事です。

 

梅原龍三郎  静岡県の大仁よりの眺 1955年  西宮市大谷記念美術館蔵

及川氏は北からの眺望、こちらは南からの眺め。時間帯は近いかもしれません。

同じ心を感じますが、及川氏の方が山に対する真摯な気持ちと畏敬の念が勝っているように

感じます。(これは、力強く男っぽい?)一番悪いのは、富士山から受けた印象を描くのだ、

或いは自分の富士を描くのだと富士山を出汁に使って、適当に拵えてしまうことでしょう。

本当に、富士を描いていると錯覚に陥っている事に気がつかない、そういうデッサンも、

作為もいい加減なものがよくあります。(それが怖いので描かない人も多いようです。)

音楽の大家であっても、例えば大変な教養と才能に溢れているロマン派の巨匠シューマンなどでも、その楽曲の中の自分の我で他モチーフを変換した場合本質のずれが生ずる様です。良く言えば自分の芸術になる。悪く言えば本質と違う。「謝肉祭・作品9の12、ショパン」これは、ショパンの音楽の印象をシューマンが表したものでしょうが、明らかにショパンと違います。ショパンついでに言いますが、Delacroixの描いたショパン像は本質を突いていません。

拵えた(勝手にこしらえた)富士形のものを、富士山だと言ってはいけません。

また、写真の富士山を、そっくりに(或いは加工して)描き移して「これが富士山です」。

などというのは、情けないと思いませんか?自分で写したものでもいけないのに、他の人の画像をことわりなく勝手に使うことなどは、避けたいことです。

絵画教室テキスト

   アートは戦い アーティストは戦士  (初心者向け)

なので、持ち運びが楽だからと小さいスケッチブックにしか描かない人は絶対に進歩しない。

必ず規定のものや、表現に必要なサイズと紙質にする。これは、どの教育施設、教室、美大、

でも同じ事。常に挑戦、上達(単に上手くなる事とは違う)の為には大変なことを厭わない。

戦いのモードに突入する。これが自分を育てていく、向上していく、初歩的な基本。

芸術に限らず、どんな習い事でも、スポーツでも自分に負荷をかけなければ、一人前にならない。苦しんで苦しんで成績を上げていくのは、スポーツと同じ。

    中途半端に上手なくらいなら下手な方がよい。

上手ならば徹底的に上手くなければいけない。でも、美大のトップクラスであっても、

それだけでは、アーティストとしては物足りない。それ故に上手下手を超越した人例えば、

中川一政。梅原龍三郎。萬鉄五郎。他多くの作家達。などを範とする研究が必要になる。

小綺麗で、洒落て、ハイカラで、上手なだけのものは、何の価値もない。

描いたその人が死ぬと単なるゴミになる。

下手で、汚くて、不快で、醜いものであっても、描いた人の人格が十二分に反映されているものは塵になるならないを別にしてアートである。それにその人の深い人間性が感じられるのならば、また更にその人の、

精神、感性、が発揮されればいうことはない。

昔から言われている様に、芸術家に教養が必要なのは、それ故でもある。

絵を描くのは自分の赤心を二次元空間に押し込め人に鑑賞してもらう事でもあるので、人に見せられる立派な心が少しでもなければ描画すべきではないと思います。

 

上達は描いた面積に正比例する。

 

上手に10枚描くより、下手に1000枚描くほうが価値がある。(もちろん、中途半端に1000枚描くことではなく、完成度の高いものを10枚描くほうが価値がある。こちらが本意。)アートすることは、行に近いかもしれない。出来のいいものを多少作ったとしても自分の魂が得るものは殆ど無い。深く追い求めていくことによって作品の良し悪しを越えた何らかの悟りに到達する可能性がある。行深

でも描けば描くほど下手になるかもしれません。「あの人昔は上手かった」と言われる人が沢山おられます。それでよいと思います。最初の目的は上手くなることや自分の才能を発掘することであっても、芸術の神髄を照見出来たとしたらそれにまさるものはないような気がします。むしろそのほうが困難でしょう。うまくなりたい、利を上げたい、という欲望に根差したものなら、深く行ずる妨げになります。さらに言えば、普通人の心ではなく、深い洞察力と洗練された知性がその戦いの大事な武器になります。(下手に描くと言いましたが勿論雑に描くということではありません。また、この項に関しては、本当は上手く描いてもらいたいのだけれど、上手く描くことの弊害を考えての哲学的且つ逆説的言い回しでもある事を感じて欲しい。ただ、感受性のない人や本物に感応しない人は下手に描いても全く意味がない様です。)もう一つ言い忘れていましたが、重要な事です。昔、ターナーに銀行の頭取である彼の生徒が「先生!どうしたらもっと絵が上手になりますか?」と聞いたら、ターナーは言下に「簡単です。あなたが貧乏になることです」と言われたそうです。今日テレビを見ていたら、相撲の危機管理委員会の委員長の高野が、傲慢不遜な官僚的態度でものを言っていました。池坊の女房も同類で、そんな態度のとれる成り行きではないのに、生意気で、ぶんなぐってやりたかったけれど、テレビが壊れるのでやめました。つまり官僚の思い上がりだけでなく、何の世界でもトップに君臨し自分の本当の至らなさを深く洞察できない者は、神髄に近づくことさえその準備段階で神仏に見放されることでしょう。弱い立場の人を知らず、人の痛みや悲しみを思いやれない者は尚更です。増長心・慢心をもつものは、自分より上の実力者からも学ぶことはできません。自らを弁え、身の丈を低くして、丹心をもって事にあたる人は、蟻一匹からも教えを受けられます。極言すれば、最低の先生からも最高の宝を盗み取ることもできます。あなたが最高の心を持った人ならば。芸術を志すものは、低級な人間とは違う立ち位置にいなければいけない事を、お分かり頂けたでしょうか。このことを Joseph Mallord William Tuner 1775~1851は言いたかったと思います。ー  2017年12月   また汚い者を見てしまいました。学生は自分の利益を得る道具としか考えない日大学長、大塚吉兵衛です。この悪しき態度は日本中の方々が知ったので説明は無用でしょう。自己保身能力に長け、ずる賢く卑怯です。この類がトップにいる間は日本も良くなりません。内田正人・井上奨など与太者を使い大学を牛耳る。責任もとらない。(このことで少し調べたら、大塚の上に穢れきった大悪党がいるそうです。またその上に日大を穢れさせている同類もいるようです。大悪党が自分の天下にするために、コマセを撒き鼻薬を嗅がせられた政治家や著名人達、弁護士、大量の予算のお零れ頂戴に集まる悪虫ども、これは恥を知りません。さりとて、多少でも人の心が有るのなら、「有子曰信近於義言可復也。恭近於禮遠恥辱也。因不失其親亦可宋也。-学而第一、字義、親は悪党どもの親睦、宋は尊ぶ意、即ち宋ならず、能く親しむべからざる者どもの徒党故也」人と約束せし事は、必ず履み行はんことを要すれども、若し義に於いて缺くることあれば、必ずしも履行するに及ばず。例えば人と共同して一事を成さんと約せしに、其の後に至りて、其の事の義に合はざることに気付きたりとせんか、其の約は果さずして可なるが如し。何となれば信と義とを較ぶれば、義の方を重しとすればなり。つまり、その悪党に尻尾を振りまくる小悪党が、まず其の事の是非善悪を腹の底から熟考せんことを要求する。)これを国民は絶対許さない事です。日大系では類は友を呼ぶで学部長だった人間の責任回避と要領の良さをこの目で見ました。この様な者がトップに座らない様、社会が阻止する必要があります。ー2018年5月

 

第16代アメリカ大統領リンカーンが言われた言葉ですが、「40歳を過ぎたら自分の顔に責任をもて」これは、大体この年齢になると個人差はあっても、その人の精神が顔に大分出てくるという事です。具体的には、例えば自分の息子を医大に入れる為に非常に汚い事をして、国民から「ふてえ野郎だ」と言われた、文科省官僚トップなどは50代ですが、一瞥しただけで、腐った魂の匂いを既に感じさせます。この年齢から加齢するごとにその感じは強まる様です。

日大の悪党などの顔は多分10m離れて見ても酷く穢れた魂を感じさせると思います。これを美化せず本質を描き切るのが本当の肖像です。画家は人の顔を見るときその内面を抉り出して見ます。地位あるものは常に鏡を見て逃げずに、自分の腐った魂を正確に認識する事です。

『精神は顔に出る』と書きましたが、「では造作にはでないのか?」と聞かれたら、微妙なところです。猜疑心の強い人は一見して素人にもそれと分かります。そういう人たちに共通する顔の筋肉、筋、皺、凹み、盛り上がりなどがあるのかもしれません。傲慢な人間や優越感を持っている人間はその汚さがはっきり顔に刻まれていることがあります。精神や心が無意識の内に筋肉や筋を動かしているのでしょう。目に心が出る事もありますが、それに捉われると心を読みにくいかもしれません。それとなく相手の前に回って目を閉じて相手の方向に全神経を集中すると、その人間の本質が見えてくることがあります。斜めでも

、途中に障害物が少しあっても大丈夫です、後ろからでも魂が無防備な状態ですので、寧ろ簡単でしょう。ただ欲しい情報に関しては、前側の方からが得られると思います。一瞬の表情の変化にもでます。いかれた人の中身を見たら気分が悪くなるかもしれません。

この技術は直接の描画に使用は少ないですが、重要な中枢になります。対象となる人物本人がいくら善人ぶっていても隠れている悪心を掘り起こして発見することもうまくすれば出来ると思います。多数の人を残虐に殺した人間が年齢がいっていないとその顔に悪心らしさがでていないことがあります。非常な悪党なのに、顔は普通。そんな場合、この方法を試せば、本質を暴けるかもしれません。その場合は必ずしも目を瞑る必要はありません。唯テレビ画面や写真からだと難しいでしょう。亦この技術は観念的な人や我の強い人にはできないと思います。

今回試しにテレビ画面より練習してみました。それは、米連邦最高裁判所判事の指名について、性的暴行事件の被害者と加害者(判事候補)の討論ですが、フォード氏とカバナー氏で、どちらかが嘘をついているとのことです。加害者のことを私が知っていれば一瞬で多分わかります。しかしこの男は演技しています。俳優は演技をする時役になり切っています、俳優の内心を即時に正確に読むことは大変です。(蜷川幸雄氏は良い俳優は感情的な場面でも、心に冷静な部分があると言われておられたようですが、その演技ではない冷静な心の部分からの抽出も出来ないとは思いません。)おまけにこの男は多分都合の悪いことは事前練習で記憶の末端から消す作業を反復しているはずです。この時点ではわかりませんが。記憶の消滅を図ったとしても、魂自体がその行いに染まっているので、一瞬の心の動き、隙にそのなんらかの信号がでると思います。顔の血色の現れ具合は相当量の自己暗示の内在を示しています。一日二日この男に張り付いていれば、嘘の度合い、魂の腐り具合、正確に分かると思います。

(蛇足。魂と精神は当然別物です。魂は天からの授かり物。精神はそれから生じたもの。)

俗人は上っ面で人を判断します。今までの経験で目に頼り刮目して鋭い眼光で人を見る人は、実際真実を見誤ることも多い様です。現代は、あまりいませんが、茫洋とした、弛緩した様な目で見ている人が実は対象となる人の腹の底まで見抜いていたりします。『大智は愚のごとし』と云う感じでしょうか。目から鼻に抜けるような人も、割と馬鹿が多いかもしれません。

(我が強く眼光鋭いピカソは真実を見ていなかったような気がします。それについての証明材料もありますが、長文になりますので割愛します。)

 

盗み取るとは悪い意味の様に聞こえますが、職人の世界では、教えてもらったことは忘れやすい。しかし能動的に自らを啓発して得た技術や知識はものになる。という常用句です。それから、丹心という言葉を使ったことは、今の日本の屑に対する多少の怒りと嘆きをもって、『留取丹心照汗青』という、科挙ナンバーワンの官僚でもある、文天祥の詩からの連想で入ってしまいました。彼はこの後、フビライに恭順の意を表すことなく、日本人の様に長い物には巻かれることなく、名誉と忠誠をつらぬくため死を選びました。文天祥はトップでそうしたのですが、日本の場合は違います。日本は弱い立場の正義感の強い人を不幸にするようです。トップが責任を取るべきところを末端にしわ寄せをもっていき、その人の死の上に自分達の利益と幸せを死守していく。卑怯な悪党佐川の顔も不快極まりませんが、加齢とともにその魂が顔面に表出するでしょう。大臣も留任して嬉しそうに白い歯を見せる穢れ切ったその顔を見たら国民として言い尽くせない不快の念を禁じえません。日大以下でしょう。(今日ネットのニュースを見ていたらまた穢れた悪党が一人出てきているようです。財務省の森友事件で、もみつぶしを図っている悪党に尻尾を振り加担し国民の大事な報道までも押しつぶそうとしているNHKのH.K報道局長だそうです。この男の顔は見ていませんが、たぶん私の最も嫌う腐った魂が如実に感じられるものかもしれません。日本国民がフランス人位の覇気があれば、この男は絶対に許されることはないでしょう。国民にとっての正に獅子身中の虫也。)この様な者どもを見て有象無象どもが追随するようなら、天も日本人を見限るでしょう。ここでは、国民として感じたこと、言わなければならない事を忌憚なく書いてみましたが、自分の利益、エゴだけを振り回す日本の屑人間のことばかり書いて、聊か気が滅入ったので、素晴らしい人もおられた事を記しておきます。だいぶ以前になりましたが、有名宗教系大学の創始者のお宅に伺った事があります。大学に隣接していましたが、お部屋のドアを開けた瞬間私の心に安寧の波が押し寄せてきました。男は糸の目。女は鈴の目。といいますが、その糸の目であるのに、先生の心がはっきりとわかりました。この先生の愛に包まれた学生達はどんなに幸せであろうかと思いました。長い時間ではなかったかもしれませんが、言葉の受け答えは非常に少なかったですが、大変な量の、言葉を超越した以心伝心の会話をさせて頂いたように記憶しています。その時初めて、言葉を介さなくても会話ができる経験を得たと思います。感謝。合掌

 追補

日本人が覇気があれば、と書きましたが、私も腑抜けになっているので、人のことは言えません。これを書いたことは母親の言った事を思い出したからです。終戦後すぐ位でしょうか、母親が賀川先生の所に通っていたころ、GHQの話を聞いたそうですが、マッカーサーか、他の

brain trust かはっきりしませんが、「日本人全部の金玉引っこ抜いてしまえ!」という会話がGHQで、あったということです。今思い出すと「なるほどな」ですが、実際マッカーサーの意向がいまの日本人に影響しているという感じが処々に見受けられる様な気がします。

(金玉とは俗な意味ではなく、また、単なる強さだけではなく、正義感、精神、献身、温かさ、他に対する愛情、等々など、日本人の美徳諸々が含まれている様に感じます。これに類することですが、素晴らしい著作があります。Marvin Tokayer 1936年ニューヨーク生まれ。

日本ユダヤ教団の指導者。その著書は日本人は死んだ」株式会社日新報道、昭和50年12月20日発行。Marvin先生の言を俟たずとも、黒川事件他諸々のことで、日本人の性根の腐り具合には本当に悲しくなります。)今はあまり言いませんが、昔よく因果応報という言葉を聞きました。その言葉まさに2022年に大見えきって表出しました、悪党が閻魔さんの前に引きずり出されたということです。自分の勝手で弱い立場の奥さんを悲しみの底にしずませたその報いとして同じことを閻魔様に命じられる。当然の結果です。この次はロシアのごみが閻魔様の前に引きずり出される事でしょう。もしそれが出来なければこの世は存在していてはいけません。それほどの価値はこの世にはありません。(これは単純にいうならば、人間の働きが足りなければ、天の動きを待つということです。)

 

アーティストは凄まじい努力をする。 某美大教授

 

死ぬまで精進            貴乃花親方(元横綱)

 

日曜美術館で入江一子特集をやっていました。入江先生は百歳を超えて百号、二百号を製作されておられるようです。ぜひ先生の心意気を、アートの心を生徒さんも己がものにして頂きたいです。先生曰く、 なにくそという気持ちで描く。死に物狂いで描く。一気に描く。

毎日描く。林檎があっても、魚が有っても、描かないと食べない。そして、絵がだんだん分かってくるのです。命がけで描いています。

 

清水の舞台から飛び降りた気持ちで描け。 林武

 

芸術修行とは心を磨くことである。    不染鉄

 

一日に14時間から16時間描く     藤田嗣治

 

長尾 巳      賀川豊彦先生像

私の母の生涯の師です。

 

 

ここで、アーティストとして完成されないまま途中で辞める人の事を述べてみます。

勿体ない事ですが、上達しないで辞める人(ほかの芸事でも同様に感じますが)はどうも芸事をなめているような気配があります。概して、俺は社会的にもそれなりの地位にあり、この程度のことは楽勝であると最初思っておられていても、実際やってみるとそんなに甘くはない。

普通はすぐ簡単に上手くはなりません。自分の能力を確認して少しずつ薄皮を重ねていくような根気がいります。焦らず、慌てないことです。その過程に於いて人によっては辛いこと、苦しいこと、山あり谷ありを乗り越えて初めてほしいものが手に入ると思います。

旦那衆の手慰み気分では、本物にはなりません。本気で勉強してほしいです。

生兵法は怪我の元とも言います。中途半端な半可通になるくらいなら、最初からやらない方が良いと思います。(全然知らない方が寧ろ、ましな場合があります。以前、私の父親から、柔道をやるにしろほかの習い事をするにしろ、師範クラスを越えられない様なら初めからやるべきではない。というようなことを聞きました。短期のカルチャーや、釣りやゴルフなどと違い、芸事、芸術は自分が死ぬまでの長いspanで構成されるものだと思います。

玄制流空手創始者、祝嶺制献最高師範は、その著書で「好奇心は術技の向上を妨げる」と書かれています。術技は一つ一つ正確に身につけるようにし、習性化することが最も望ましい。つまり、修練したある術技が、時にふれ折にふれ癖になって出てこそ、術技が完全に身についたといえるのである。それには、術技を段階的に着実に修練する必要がある。ところが、ほとんどの人は術技を完全に会得しないうちに、新奇なものまたは未知のものに憧れ、好奇心で興味本位に術技を求めようとするので、ついには、すべての術技を無にしてしまう結果となる。術技は習性化すべきものだということは鉄則であり、たとえ一年がかりで一つの術技を会得したとしても、好奇心で数多くのものをあさった人より、効果的に術技を身につけることができる、ということを理解しなければならない。とこの様に述べられている。このことは芸術内だけでなく、あっちこっちの趣味に手を出す人は、深みを知らない薄っぺらな人間として生涯を終わつてしまっている結果が多々存在し、その轍を新たに履む人が出る事は残念な事です。

広く浅くはダメ。 深く狭く極めたい。  ショー・コスギ

己の立てる所を深く掘れ、そこには必ず泉あらむ。  高山樗牛

 

案外そういう人に限って、話しながら描いたりしています。明らかに芸術を甘く見ています。

美術のことなら未だしも、俗な会話しかしません。ルーベンスのルの字も、ピカソのピの字も発しません。如何に必要な勉強をしていないかという事がわかります。当然神経が会話の方に取られて集中が非常に弱くなります。上手くなる人は一時間でも二時間でも、一言もしゃべらず呼吸自体も整って素晴らしいです。近づくのが憚られる程の魅力的な芸術の深みを探索されていると思われる事があります。ごく自然に労せずしてそうなる人は、やはり心がちがいます。素直で純粋なところもあります。更に芸術を正確に見抜く眼力も必要になります。ルノワールの描いたエレーヌの肖像などを集め美術館を作った、ビュールレは画家ではなく、死の商人のようですが、非常に鋭い感受性を持っていたそうです。描く立場の人は彼より遥かに優れた感受性を必要とするでしょう。生意気で理屈っぽくて我が強い人は完成されないまま終わることが多いようです。音楽でも集中力が足りなければ上手に弾くことはできません。

芸術の深淵を覗けない上っ面だけの人間で終わっては困ります。

 蛇足     変な宗教に引っ掛かり芸術を捨てる人もおられますが、そうなる前に是非、仏教関係なら鈴木大拙師の著作を読まれることをお勧めします。もう一つ蛇足ですが、ここで書いている文章がアイルランド民謡よりのベートーヴェンが作曲した、『真面目で分別臭い人は御免だ』の詩を連想する人があっても、覚悟の上です。

 蛇足の蛇足  最近の生徒さんは、何処に行くにも車を使うようです。1kmにも満たないところを自家用車で来ます。昔、関東軍が蒋介石軍と八路軍とで三つ巴に戦っていたころ、一人の兵士が「もう歩けない」と言ったところ、どちらが良いかと手榴弾と拳銃を渡されたそうです。そして行軍を続ける軍の後方で炸裂音が聞こえたそうです。生徒さんの顔を見ていたら、この人も関東軍にいたら、そうなるかもしれないなあ、と思いました。なんかきつい性格の人の方が締まった魅力的な作品を造る様な気がします。甘い人は抜けた絵を描きます。私もどちらかと言うと(超が付く)甘っちょろい方ですので、気を付けます。

教習では、ハウツー本に書かれている程度のことを知るには、先生は必要ありません。

先生を本当に必要とするときは、その勉強を極め深い部分がわからなくなった時です。其れから更に極めたときは完全に先生を必要としなくなります。武蔵守藤原の玄信はその著書五輪書に於いて、兵法の利にまかせて、諸藝諸能の道となせば、万事において我に師匠なし、と書いています。師匠が押し付けてくる技をわが物とするより、自ら編み出す方が優れる場合もあるということです。ずっと昔に読んだ大法輪と思いますが、釈尊が死に臨んで最も身近にいた弟子、阿南尊者がこれからどうして生きて行けばよいかわからない旨を伝えたところ釈尊は「よく陶冶された自分こそ真に頼るべき寄る辺である」。と話された様です。十大弟子全て悟っているのに一番近くの彼は悟れずいたそうですが、釈迦入滅後一週間位で悟ったとか書いてあったような気がします。それととても似た話ですが、風景画の先生についていた人が、先生が亡くなるとき、「私はこれからどうしたら良いかわからない」。と泣いていたら、先生は、「明日からあなたは山を師として生きてお行きなさい」。と最後の導きを授けてくれたそうです。そういえば、山鹿素行も似たような事を言っていました。「聖教要録ー其の言行の己より愈れる者は以て師とす可し。何ぞ常師有らんや。天地は是師也。事物は是れ師也。更に、師は端倪を示し、」とあります。つまり大まかにしか言わない。「山まさに語らず、」ですが、アーティストに感受性があれば、雄弁に語ってくれます。またなかなかの力のある人でも、美術に限りませんが五年~十年ワンパターンを貫きドグマの中に埋没して精神の固着化を招いている人のそれを破壊して新たなより優れたものの創造の手助けの為に戦う先生方が存在します。それから、パターン化した描法を流儀として教える事自体は、往々にしてそれを受ける生徒のアーティストとしての将来をspoilする結果になってしまう事もある様です。

アートは千人千様でしょう。その人のアートの神様との仲人を務めるのが先生の役割であると思います。なので、自分の見つけたアートのことを先生に伝えないと先に進めません。

悪い先生はそこで自分のアートを押し付けます。盗むぶんには構いませんが押し付けられてはいけません。でも良い先生は生徒が悪い神様と仲良くすることは、阻止しなければならないでしょう。しかし、先生が芸術家気質で生徒が感受性やdelicacyが無く我が強い場合は修羅場に突入する可能性が無いわけではありません。先生が踏み込んでいくと嫌な思いをすることがあります。「悟りとは損すること。迷いとは得すること」。確か沢木興道老師の言葉のようですが、良い先生なら損得を考えずに、やらざるを得ません。その為そんな思いをしてまでと、生徒を取らない芸術家も多い様です。若干微妙な問題です。   ここで、非常に重要な事を

青山昌文先生がおっしゃられていますので、付記しておきます。それは、芸術は作家の自己表現ではなく、世界を表現することである。これは、今までよしとされていたことの否定も含まれている様です。ちっぽけな芸術家は自分の自己表現を最高のものとする。しかし、その態度を天は片腹痛いと笑う様な気がします。特に現代芸術に変化しつつある今の流れでは、頭の切り替えが必要かもしれません。

 

    絵は才能ではなく、不断の努力。  (初心者向け)

宮本武蔵の五輪書を紐解いてみよう。

       地の巻より

我、三十を越えて跡をおもいみるに、

兵法至極してかつにはあらず。

おのずから道の器用有りて、天理なされざる故か。

又は他流の兵法、不足なる所にや。其後なおもふかき道理得んと、

朝鍛夕錬してみれば、おのずから兵法の道にあふ事、我、五十歳の比なり。

  (自分は生まれつきの才能に恵まれたのだろうか?他の流派の努力不足か?もっと

   踏み込んで真理を得ようと日夜弛まぬ努力をした結果五十歳頃完成に至った)

        朝鍛夕錬

有名な言葉です。将棋の羽生善治永世七冠も才能とは努力を続ける力である。と言われています。

絵のほうでも、芸大の非常に高名な画伯ですが、卒業の順位が次席だったそうです。主席は奥さんになられた方ですが、卒業とともに筆を折ったそうです。

実力や才能は自分の方が上かもしれない。しかし、うまずたゆまず努力を重ねていくのは亭主である。とその様に感じられて引き立て役にまわったのでしょうか。

結果はそれゆえに旦那さんは、日本のトップに躍り出ました。             (武蔵について、卑怯であると言う人がいますが、戦略は策略であるので、そう感じます。むしろ、スポーツなどの方が更に汚いように感じます。相手の打てないところに球を撃ち込んで相手がへまをすると、「サー」と侮蔑の声を発したり、自分の勝利の為にこれでもかと、策を労する。それを見て我を忘れて喜ぶ人間も、人を殺さないfairな戦いであると嘯く。私は、それが嫌でスポーツは見ません。球技関係が多いですが、勝つことだけに現を抜かすスポーツも見ません。付け加えますと、武蔵については、嘘か本当か知りませんが、こないだテレビを見ていたら天草の乱に参戦した武蔵が敵に石をぶつけられて足の骨を折ってしまい、痛い痛い?と逃げて帰ってしまったそうです。もしそうなら、武蔵は自己アピールだけは達者でも戦いは超弱い人ということになります。)

 

芸能・スポーツ・各種習い事など自分の自力や能力を上げていかなければならないことは、

自分自身の情熱・気合・直向きさ・芸を甘く考えない事・毎日の努力を怠らない事・片時も向上を忘れない事。 

ピアノでも、バイオリンでも、空手でも、幾日か休めば下手になる。          (落語の師匠が弟子に、

一日稽古したから上手になると思うな!一日休んだから下手になると思え!と叱ったそうですがこれは事実です)

そういう危機感のない人は何をやっても駄目です。また、教室やレッスンで、ものになるのではなく、普段の努力の結果であるということでしょう。

 

特に今の日本人は箍が緩んでいるようです。「苦しまないで楽に簡単に上達しよう」

などとは、道理や法に従わない不埒な事です。

 

スウェーデンの画家のシャルロッタ ローセングレンさんはアビスコ国立公園のトルネトレスク湖、特にラッポルテン山など、外の零下30度の所で絵を描くそうです。(関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅スウェーデンより。NHKの番組)

沼津や三島の暑さ寒さ位で絵を描くのを躊躇するような人はアーティストではありません。

             重要な事  (初心者向け)

 

大事な事は締まりのある絵を描く事。

安易な気合の足りない気持ちで描くと、だれた、弛んだ絵になる。

スポーツなどは、監督やコーチが怒鳴ってくれるが、

絵は自分を鼓舞するのは、自分自身でやらなければならない。

だから、その点でスポーツより厳しい。

そして、最も重要な事が、テクニックではなくて、その人の内面・人柄・教養

ということになっているようです。

内面・精神・人間性を具現化したのがアートであり、

この場合は絵がそれにあたる。(花であり、人物であり、風景であっても)

音楽の場合も大勢のmaestroたちが同じようなことを言われていることは、

興味深い。(akinokami.com/にも記載)

教養や感性が並みの人は当然レベルの上の作品を生み出すことはありえない。

楽しむだけの人はそれで良いが、ある程度のものが欲しい場合は、

まず、自分の教養、感性、情熱を育てあげなければならない。

技術はそれからでも十分に間に合う。

絵を見れば、描いた人の性格、知能指数、気持ち、などすぐに分かってしまう。

市展などでも上手だけれども随分恥ずかしいものが平気で掛額されている。

恥を知ってまず「自分の人間性を向上させることが先決克最重要課題」です。

   洋画家について(これは中級以上の人は読む必要がありません。初心者向け)

50号以下の作品しか描かない人は洋画家ではありません。(50号以上を描く)

実際に風景を見て描けない人は洋画家ではありません。(実景を描く)

実際の人物を見て描けない人は洋画家ではありません。(実物を描く)

写真から描く人は洋画家ではありません。(そのまま描く、変えて描く何れも悪)

手先でなく腰と体で描けない人は洋画家ではありません。(全身を使って描く)

油彩・水彩・ドローイング・他、全て使いこなせない人は洋画家ではありません。

他流派の花活けを描き阿る人は洋画家ではありません。(常に自分の独創性)

油彩を使いこなす為に全ての技法が有る事を知らぬ人は洋画家ではありません。

ヌードデッサンを描かない人は洋画家ではありません。(裸婦・裸夫を描く)

油彩の価値を感じない人は洋画家ではありません。(知識・勉強・感性・教養が必要)

絵を描くということは全身全霊で戦う事。生易しいことではありません。

      生徒さんで、自分と先生は考え方が違います。という人がおられますが、そういう人のお役にはたてません。Huseyin Sermet先生も同じようなことを仰っておられるようですが、私も感覚的なことを言うこともありますが、総体既に確立された定石的な部分が多いです。(定石・定跡は必ずしも確定的なものではなく流動性もあります。名人の前に定跡はなしと言われる様に固定概念に縛られない自由な心も必要ですが。)習い事などを過去完成(師範以上になる)させたことのない人や我の強い人などはの、その人自身の能力を上げていく指導法から生じてくるお互いの関係の機微を了解していない場合があるようです。融通無碍は無理ですが、我を弱め多少でも素直な感受性をお持ち頂けると身につくものも急に増えると思います。

丹心をもつだけでは足りません。

Tunerの言われた事を根本とするのが向上する為の本筋でしょうが、それを踏まえた上で、先生に教わる場合でも師につかない場合でも、内実は自分を育てていくのは自分自身の力、熱心さしかないと思います。まあ才能も多少は影響するかもしれませんが、上達の度合いは、熱心さの分量が直接響いているようです。熱心さ⁼アマチュア⇒情熱⁼一流⇒燃え滾る熱情⁼超一流。

プロの先生方の中には「朝に名画を描かば夕べに死すとも可なり」の心意気で戦っている人もあるかもしれません。「えっ?!私?今は全然…です。介護で燃え尽きたかもしれません」

J・M・クレス  Davideのアトリエ      カルナヴァレ美術館蔵  Paris

裸夫デッサンですが、日本人はこれが足りないので人物画は、人体がぐずぐずに崩れたものが多いようです。アニメーターの描いた人体はしっかりとしています。(deformerした場合も)

J・Ingres  油彩によるデッサン(アンジェリカの習作)

全くデフォルメなしの油彩スケッチです。Ingres的な感じですがまだ加工前のようです。

      スケッチ会現場 牛臥公園

中央の右寄り一番上の芝生に近い白い小さな点がスケッチ中の宮代さんです。

宮代さんの左側に市川さんがいたはずですが見えません。右側、緑の草場のこちら側岩付の松の手前の小さな三脚についている1mm位白いのが、私の描いているキャンバスです。

前景の大岩右の上に中村さんが陣取っていましたが。大波が襲って来て姿が見えません。

後ろから覘かれるのが嫌な人は図々しくなるか、大きな傘で「みちゃダメ‼」と隠します。

右の画面外の突堤の上に遠藤さんが描いています。こちらの方は立派です。

      ご質問にお答えして。

よくあるご質問は、「何を描いたら良いかわからない。」ということですが、お一人、こないだの展覧会で、ある人に「あなたの絵すごく気に入っている、また次を期待しています。」と言われたそうです。つまり『たった一人でも喜んでくれる人の為に描く。』その人の喜んでもらえる作品を考える。それで十分だと思います。順序はやはり基本を順番にやっていくこと。

絵の根本は光と影です、そのモノクロの正確なgradationが画像を構成していく。それに質感・空間・色彩・絵肌などが加味されていく。ドローイング類がまず完成の域に近づく事。次に絵具の扱い。色鉛筆やパステルなどは絵具を使うことに長ずれば習わなくとも使いこなせます。

逆に年長者の場合パステルをやってから絵具に移ると上達期間が著しく遅れます。

何を描くかですが、レンブラントを凌ぎたい人は、それを徹底的にマークして研究を極めていくわけです。そして何よりも本物を見て強く感動して闘志を湧かせる。

西村計雄画伯の画商カーンワイラーはピカソやブラックの本物を画伯のアトリエにもって来て飾り、「これより上手に描け」と発破をかけたようです。

長泉町下土狩の鮎壺の滝   2017年9月23日

現場で短時間で描いた為多少変えてあります。黒絵具は無使用。この時点で水量多し。

こんな所で描いています。上の絵がこれです。他の人は飲んだり食ったりが忙しいです。

スケッチ会   もう飲んでしまっている人もいます。調子に乗っても、李白には負けます。この飲まれている方の姿を見たら李白の月下独酌が浮かびました。月を滝に変えたら如何でしょう。   花間一壺酒 独酌無相親 挙杯檄明滝 對影成三人

   滝既不解飲 影徒髄我身 暫伴滝蔣影 行楽須及秋 我歌滝徘徊 我舞影零乱                醒時同交歓 醉後格分散 永結無情遊 相期遥雲漢(元詩は春の花こちらは秋の葛の花)

流れ落ちる水ですが、最初は前日の大雨で物凄い水量でしたが、「あれっ」て気が付いた時は

見る間に減ってきて、まるで前立腺肥大の人のおしっこの様に「ちょろちょろ」の「ポトポトまではいかない?」状態でゆっくり描いていたらほんと慌てました。風景画は、瞬間を気合よく切り取らなければいけません。油断でした。(風景は光線が変わると違う印象になってしまうので2時間が限度、場合によっては一時間。)流れがちょろちょろになったので、気合が入る様に「滝に打たれたらどう?」と聞いたら、みんな「や~だ!ヤダッ!」と言っていました。

江成一郎画伯の師伊藤清永はこの場合人物画ですが、「上辺だけで描かず、泥んこになれ」そして、「最後はねじりこませるくらいの気迫で描け」と教えられたそうです。(風景も同じ)

大きい滝が3つと小さい滝が2つあるそうで、小さい滝なら、ちょぼちょぼのしょんべんかけられているようで抵抗感がないと思います。エッ!アルッ?私は蛙ではないので、やりません。

(それからここの部分は絶対読まないでください。こちらでは、生徒さんに気合を入れるように言ってはいますが、私自身本来ひ弱で気が弱く、虚弱なので気合はそんなに入れません。集中力が主でしょうか。小さい時も病気をしてるか、泣いていた記憶がほとんどです。)

 

 

総評

総体皆が描くスピードが上がるとよいと思います。それから、みんな来るのが遅いようです。私は10時集合なら、9時前に来て現場を網膜に焼き付けておきます。真剣勝負ですし、最高の光線を描くので、既に戦闘モードに入っています。私と生徒さんの違いは絵がうまく描ける描けないの違いではありません。才能も、もしかして生徒さんの方が上の人もいるかもしれません。違うところは、常ならん気持ち、つまり学生の時、会社員の時、現職の時、役員の時、の受動的な今までの常識ではなく、能動的な自らの感性に従ったそれをフル活用できる状態いで行動をするということです。それを初級の人が時間どうりに来てすぐ素晴らしい集中に入ることは大変です。まずできません。結果満足なものができないということになります。早く来て五感をフル稼働できる癖をつけて下さい。車に例えれば、上級の人が十全のウオーミングアップを終わって8000回転を越えて回せる状態なのに、初心者が800回転のアイドリングに入ったばかりで10時のスタートを同時にきるようなものです。戦闘に入る前から勝敗は決まっています。人物を描く場合も今までの気持ち(普通人の気持ち)をチェンジしなければなりません。『木を見て山を見ず』『目を見て顔を見ず』少し細かい事を言いますが、マグノ細胞情報伝達経路(脳科学)というのがあります。視覚化されたものの全体の認識の能力ですが、現代スポーツでも既に応用されていると聞きました。描画に於いてもその熟練度が低いと構図も、色彩も、明暗も、バランスも、纏まらないことは、ご存知でしょう。(私自身は松濤館ですが。)昔研究した、少林寺拳法に、八方目というのが確かあったと思います。それは、相手に対峙したとき敵の目や顔を見たらあいての突き、蹴りが見えなくなるので、常に全体を全て見る。それができなければ、勝負にならない。五輪書の水の巻にも「兵法の目付と云う事、目の付やうは、大㋖に廣く付る目也、観見二ツの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事兵法の専也、敵の太刀をしり、聊(も?)敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也、工夫有べし、此目付、ちいさき兵法にも、大㋖なる兵法にも、同じ事也、目の玉うごかさずして、兩わきを見る事肝要也、」まさに言い得て妙。武蔵は既に現代脳科学の先を行っている様です。囲碁、将棋でも、盤面全体を認識するのは、重要な基本でしょう。そのあと絵の場合はパルボ細胞も稼働するかもしれません。まず、この能力を伸ばしながら、ほかのテクニックも鍛えるわけです。(それとは違いますがお酒を飲みながら描いた人は杜甫が李白を飲中人仙歌で歌った、李白一斗詩百篇というように何シーンか描けました。常ならん状態に自分を置くことも、芸術の世界では必要かもしれません。)他の人は、忽ち水量が減ってうかうかしてたら、完成に至らず終わったようです。どうも飲んでから描くと調子が良いようなので、今度は酒盛りしてから描きましょうか?。私個人的には、醒覚の上に醒覚を積みたい方ですので、アルコールなど以ての外です。スケッチ会では色々あって面白いです。(私はご高齢の方が多いので、AEDを習いましたが、もう使い方を忘れました。)カメラについてですが、小松崎先生も常に携帯されていたようですし、メインが現場作画なら参考資料としての活用もあるでしょう。要はそっちがメインにならない事です。心が冷静を欠く時や集中力の足りない時など見落としが生ずるかもしれませんので。ただ、写真に頼る気持ちが強くなると相当集中力の減退がおきる場合があるので、その時はカメラを捨てる事です。写真から描こうとする人間の心を分析してみると。egoistである。

この安易な精神をもつものと類を同じくする者、誠実且つ真剣にものを考えない者、

楽して自分だけいい思いをしたい、自分の利益、自分の快楽、自分の喜び、自分への甘やかし、その延長線上にあるもの、それは取りも直さず他者への思いやりの心が薄くなるということでしょうか。幼い子供にご飯を与えず、「お前など死んでしまえ」とやせ細った子を日夜暴力の限りをつくして殺してしまう。そんなニュースが大変増えています。前世の因縁でないとした場合、その子を助けられない神様も重罪です。悔しいです。悔しいです。日本の誰もこの子を悲しんでくれないのなら今夜は私が泣かせてもらいます。 2018年5月。また新潟で残虐な児童殺害が起こりました。日本では際限なくこのようなことを起こします。この子の写真が出るたび涙腺に針を受けるが如き心痛です。犯人の写真を見るたびに、浜の真砂を凌ぐぐらいの回数八つ裂きにしたいと思います。江戸時代よりも、人間の心の劣化や退化がすすんでいるかもしれません。当然抑止力になるのは、刑を重くすることです。幼い子供を殺したら迷わず死刑以上の重罪にすべきです。鋸引き以上の重いものがあって然るべきです。是非求めます。

今のこの国は子供を粗末にしすぎます。このままいけば必ず天罰をうけます。日本沈没では済まされないかもしれません。ただでさえ子供の数が減っているのにその声がうるさいと言うような塵がでてきました。子供の声は心和むものです。朝は啼鳥で目覚め、子供の声が響きわたるそんな日本にならなければ終わりです。肖像を描く必要もありません。

今の日本人は心が貧しく、人情も薄くなってきているのでしょうか。世界の中にははるかに心豊かな人たちもいるようです。今の日本人の絵は穢れているものが多くなってきています。

絵などはその人の内面がでますので、素晴らしいテクニックの作品の物は見かけますが、豊かな心を内包した作品は今の日本人には描けなくなってきているかもしれません。

 世界の巨匠であろうとも、その作品を見て見事であったとしても、不快の後味を感じる事があります。個人的には、Gauguin、Cézanne、Delacroix、等々その腹の中を見てしまいます。

牛臥公園ではカラス事件。五龍の滝では私が日にちを間違えて一人きりでした。城山・鮎止めの滝・牛臥公園、いずれの日も私は定刻の一時間前に来ていました。

自作の『甲山』印です。35mm×35mm