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感性を強化しないと良い作品はできない

絵画教室テキストと作品集

 

 感性を鍛える事(甲山洋画教室テキストより)

その方法もいくつもあるでしょうが、例えばモーツァルトにしてもベルリンフィルとウィーンフィルでは全然違うのでその違いをはっきり感覚し、あるいは認識するとか、cdでは本当の味を知る事ができないので、千里の道も厭わず本物を聞きに行くとかできればすべきでしょう。もちろん日本の純邦楽でも良いのでできる限り高級な芸術に触れることでしょう。一流のレベルの芸術家や私の会った限りの上級の画家はロックや演歌・ポピュラーなどは聞きませんしカラオケも一切しない人が多い様です。カラオケをやる人の多くは自分に優しく自分可愛く、低い次元で自分に酔って陶酔しやすく、自分を律し、苛め厳しく躾ていく芸事には相反する人の様で高い次元になる努力に耐えられないで低く安直なものを好み高度な芸術がなんたるかを推測し得ない教養度と頭脳の未熟さがあります。楽器演奏でもA会長は弦楽器を嗜んでおられたようですし、岡本太郎はベートーヴェンをバリバリ弾きます。絵の上達の前に人間の土台作り即ち自分を高級なものに変えていく努力がまず絶対必要になります。Artur Rubinsteinの子供たちは、Artur の弾くピアノの音で彼の心の中をいつも感じることが出来てとても幸せだったそうです。本当の一流はたとえ子供であっても、芸術の発露の手段を持たなくても高度なものにまみえ、それを感じる事からも始まっているのでしょう。高度なものにまみえれば高級になります。俗なもの、ミーハー的なものに浸ればそのレベルからは上がりません。芸術家は高級でなければなりません。まさに肝に銘ずるべきです。音楽はその構築性において(時間差と平面性の違いはあるにしろ)絵画との関連をよく指摘され、特に洋画とクラシックの関係(テキスト参照)は論じやすく面白いものです。(このページについて、クラシック偏重ではないか?とご意見を頂きましたので、私の他の好みも入れさせていただけるなら、三波春夫の大利根無情、これが甚く好きです。鶴田浩二の、藤田まさと作詩の、傷だらけの人生。村田英雄の無法松の一生も、ことのほか好きです。そして何故か空の神兵も。思い出しましたが、三味線は町田佳声の孫弟子にあたる様です。愛吟国風会準師範。)モーツアルトを加えておくとp協奏曲第22番k-482 E,Fischer が何故か一番のお気に入りになりました。ベートーヴェンのp協奏曲5番も廉価版ですが、ウィーン・フィル。ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮のものが、バックハウスのピアノの方はちょっとあれですが、指揮とこの時の楽団はとても気に入っています。カラヤンも良いですが、より自然にまた強い生命感をもって、Beethovenが眼前に立ち現れる様です。組み合わせのレオノーレ序曲第3番も秀逸です。これ以外のものでも良いので、できる限り高級なもの、一流のものに接してまずは自分を高めることです。人はどんなに技術があっても自分の人間性以上の作品は作れないのです。

 

 

 

八月、あまりの暑さに。

因みに私は、Artur Rubinsteinほど上手くはありませんが 、ChopinのNocturnesなど

弾きます。 この間戸を開けて弾いていたらこちらを向いた

雀がホバリングして3m位まで近づいてなにか騒いでいました。

「あ~その曲知って~る」と言っているみたいでした。

時々「ご飯ちょうだ~い」と来ている子の様で、

一緒に歌ってくれているつもりでしょうが、

リズムが全然合っていません。

雀は20種類以上の言葉を話している様な気がしますし、話しかけてくる子もいますが私にわかるのは3つか4つです。   *¹アッシジの

フランチェスコが鳥と話したそうですが、本当でしょう。

*²為憐幽独人 流光散衣襟 子供のころ好きだったこの詩を連想しました。

流光は雀さん?衣襟に散ず、が歌ってくれた事(説明しすぎ?)そういえば此間こちらが食べ物をもらいました。出かけるつもりで玄関を開けたら、急に雀がすぐ前に舞い降りてきました。それでくわえていたパン屑をくっかいて半分こちらの足元に飛ばして「さあ食べれば」というような顔をします。自分はその半分をくわえて飛んでいきましたが、さすが地面に落ちたものは頂けません。

雀の話が多いので他の鳥も書いてみます。母親が飼っていたひばりですが、とても懐いていて、いつも母と一緒の様でした、外に出ても必ず母の所に帰ってきたそうです。でも母も病気をして、また収入も乏しくそのことを、その子に伝えて「もうお前の世話ができなくなってきた。好きな所へ飛んで行っていいよ。」と言ったら、その子は母の顔をしっかり見てから、元気よく大空へ舞い上がって、今までに無かった飛び方で「見て、見て、こんなに飛べるんだよ!」と見せつけるように、高く高く見えなくなるまで上りつめたそうです。その後二度と母の前には現れなかったそうです。紅雀は私が飼っていましたが成鳥を買ったので全く懐きませんでした。餌を与える時でもばたついて近づくだけでも怖がっている様でした。それが或るとき籠の様子が変なので覗いてみましたら小さな蛇、ジモグリでしょうか鳥の首を絞め紅雀は羽を広げて失神している状態になっていました。すぐに蛇を取り除いてそのとき、塵を燃していましたので、その火の中に蛇を投げこみました。その瞬間からです。その子が変わってしまいました。違う鳥の様です。全くばたつかなくなり落ち着いて私の顔を見るようになりました。餌をあげる為手を入れても安心して見ているようになりました。その時の事をすべて理解したようです。動物とは必ず真心が通じるようです。人間の俗物は最低ですが。(カナリヤについてはとても悲しい思い出があります。)

 

それから、私は、鋭敏?なので、欠点として感情の起伏が激しい様です。稀に*³心緒乱如絲になります。悪い性格ですがちっとも治りません。(非常に強めのHSPのようです)それでも、他の絵描きさんより怒らない方だと思います。*⁴Jorge  Bolet の演奏を聴くとその悠揚迫らぬ演奏をただ平伏するだけです。全く乱れない心は羨ましいです。(模範としている演奏は、晩年の*⁵Claudio Arrau のものです。)でも自分の心の中はChopinのPiano Concerto No.1がそのまま(ちょっと単純)表されている様に感じるのでこの曲を聞くと自分の心を覗いているようでなんとなく気恥ずかしいことがあります。最近No.2のほうも波長が合ってきました。(こちらの方が作曲年代は早いそうですが。)

私の性格を付けたししておくと、超硬派の様です自分より硬派の人を見た事がありません。それで縁遠いのかもしれません。(貧乏も原因です。)また歌の文句に六分の侠気四分の熱とありますが、自分は七分の侠気三分の熱ぐらいだろうと思います。(最近は元気がなくなって一分の熱位になっているかも。)頭の天辺からつま先まで、精神の塊のような人間ですが、もちろん、クーラーも一人の時は絶対につけません。冷蔵庫も何年も通電していません。(anti identity politics ?)そんな中身を見抜けた人は過去一人もいません。嗚呼いました、あんた「昔人」だね。と言った人が一人。携帯は介護の時は使用していましたが、それが終わった時迷わず捨てました。哲学的には、私にはふさわしからざるものです。弊衣破帽ではないですが超俗無骨が信条です。普段は自分の感情や我を押し殺している時が多く俗物からは大人しいと勘違いされる様です。其の為良くない成り行きにならないように気を配ります。egoisticな俗物は大嫌いです。反対に、心の良い人や教養のある人といる時はとても心が休まります。 注*¹聖フランシスコ*²真山民 *³新井白石 題道灌借蓑図より *⁴ホルヘ ボレット スペイン語読み*⁵クラウディオ アラウ

 

 

母[てる]の場合は横浜でポーランドの亡命貴族でバイオリニストのJean Kowalskiという人から手ほどきを受け、ピアノはリストの直系の弟子より薫陶を受けたそうで両者ともハイフェッツやシフラを凌ぐ凄さだったそうです。なので、私が弾きだすと逃げ出しました。喜んで聞いてくれるのは雀さんだけです。(雀さん可愛そう。私の拙い演奏で。そう!私は下手です。すごい音痴なので、歌は歌いません。歌うと糠味噌が腐るほうですので、ピアノも弾いた後は毎日しっかりとかき回します。もちろん弾く前にかき回すとピアノが糠味噌臭くなるので、気を付けています。)それから、母は「明大マンドリン部のマドンナになってください。」と古賀政男(母より三つ年上)から言われていたそうです。そうとう昵懇のようだったですが、それを田京の親に邪魔され無理やり沼津で結婚させられたとの事です。本当に悲しい事実ですが、それがなければ、私が生まれずにすんだと思うと、悲しみは更に増します。絵画に関しては、知己の人だったようですが、横山大観に「てるさん、買ってよ。」と言われたとのことですが「そんな下手な絵いらない。」と言ったそうです。だから、私の描いたものなど当然下手だと言われました。東条英機も知り合いだったようですが、その熱海の別荘で所用のあと沢山の贅沢品高級食料、最高級ワイン等どれでも欲しい物を持っていけと言われたそうですが、国民がこんなに苦しんでいるのにそんなものはいりませんときっぱり断ったそうです。

 

[さうざうし」(古語)

私は誤解しやすい人を嫌いますが、誤解したことはありません。

一瞥で相手の中身が判りますが、裏切った人がそうする人で

あることは、以前から判っています。(この部分は後付けバイアスではありません。そうなる前に、その人の顔を描いた事があります。ごく普通に描いたのにあまりにも醜いものになり、非常に驚きました、そう、手がその人間の本性を見破って表していたということです。心理が動く前に不可思議な力が稼働しています。これについては、Karl Ralmund Poppr の言われた「反証が不可能な仮説や言明は科学ではない。」という疑似科学でもない様な気がします。

confirmation bias も関係無いでしょう。)                       動物は私を誤解しません。

天に昇ったら動物の魂のほうが人の魂より多く上座に座ることでしょう。

我の強い、自分勝手の、勝手よみの、人間どもは、決して真理を求める事は

しません。最も救われないのが人間でしょう。「荒涼たる島に取り残された

人間は、一人だけでは、彼の小屋をも彼の身体をも飾りはしないであろう・

・」*カントの判断力批判・河出書房刊(子供の頃のこれも愛読書)ですがわたしは逆に

(介護が終わって自分は、空しいだけの時間にいますが、)ネットオークションで

わが身を飾る美しいジュエリーを買って(もちろんすごい安いですが)しまい

ました。大哲学者カントでさえ、真理を見抜く目は無いようです。(我執に

よって真理を曲解釈しその魂が救われない所以でもあります)正に顛倒夢想。

 

諸行無常の時の流れに人間の存在はミスマッチです。なぜならその存在自体が

不自然だからです。他を傷つけ、子供を残虐に殺し、心を踏みにじり、

平然と生きている塵どもに、(非道冷酷な塵に人権を与えてはなりません)

重罰を与えられないこの世は心(浄化能力)がないということになります。

そんな世だったら無い方が良いし、神仏の働きに対する認識も変えなければ

ならないでしょう。永遠に続く時間も、永遠に広がる空間も心(宇宙意志)が

無ければ、ちっぽけな塵屑以下の価値さえありません。人間の信心におぶさる

だけの神仏の罪と罰(自らに?)もまた大きなものがあってよいでしょう。

(私自身はおなかの減って亡くなる子のいる間は、美食を慎むようにしています。悲しく死んでいく子のある間は、笑顔を封印しています。    今朝、自身の悲しみの声と涙で目が覚めました。刹那、三人の小さな子に私の涙を見られた様です。17/04/26  )

 

小学生の時、自分とこの世は何故存在するのか不思議でした。幼いながら導きだした答えは、自分を含め命あるもの全ては神仏・天のこの世を認識するための器官・端末ではないか、という事です。それなら色々の不条理も理解できます。しかし、少し成長すると、神仏類はすべて教団なり創始者が作ったものであること。人が最も信じやすい形に加工されたものだという事が解かってきました。そうなると神仏の意志によって不条理は許されない事になります。ところがそれが全く態をなされていないのが現実です。世の混沌乱れを生んでいるのはその元凶が大手を振って存在してしまっているからかもしれません。(我田引水的に自分たちの教義を展開し、なるがままを然りとする。)天の発露が命なら、命はその位置で天を認識できないはずです。

「神儒を尊んで神儒を駁し、仏老を崇めて仏老を排す」徳川光圀公の碑文

ですが子供の頃読んでから自分の宗教感になっています。(仏老を排すと言っていますが、初期仏教は世襲させてもらおうと思う部分があります。問題なのは現代に迎合したもので、その中心になるべき所の空洞化です、何とも歯がゆい限りです。)

あらためて、自分と大切な人の画像を見つめて根本を探って欲しいです。

*Immanuel Kant 1724~1804 ドイツ観念論哲学の祖

 

 

大西良慶貫主をして「現代の観世音菩薩である。」と言わしめた賀川豊彦の、高弟。古賀政男の親友。Niccolo Paganiniの音楽の末裔。Franz Lisztの愛好家。利を追わず。あっても無くても、施す人「てる」 です。田 子爵家に寄留していたころでしょうか、Jean Kowalsukiに師事したのは、何らかの知り合いの関係があったと思いますが、リストの弟子よりの教授は横浜の英語学校に通う道すがら洋館から物凄い音楽が聞こえてききほれていたらそのピアニストから招きをうけ敬聴、教示を受けたそうです。沼津では、海軍工廠を狙って米空母より敵艦載機Grummanが飛来したとき、朝鮮人が、大火を焚いて目印としたので、その時、日本人の男はすべて逃げてしまい、機銃掃射の中、重傷を負いつつ、てる一人で、完全に消しきったそうです。正義と勇敢な戦士でもあります。その頃は立派な男はすべて死んでしまって屑ばかり残ったような気がします。私も屑男の子孫かもしれません。嗚呼、思い出しました、父親は誰よりも一番先に防空壕に飛び込んだそうです。母はB29が、わんさか飛んで来ても全く動じなかったとのことです。勿論防空壕には、まったく入らなかったといいます。朝日将軍の血もはいっているとかで、そういえば、大正13年には銀座で匕首をかざすやくざ者と渡り合ったそうです。当時、大陸にいたもと将校に伺ったのですが、財界の御曹司である軍トップが、戦雲が急を告げるまえに本土に逃げ帰ったそうです。南方で人がバタバタ死んでいる頃、伊豆長岡で芸者をあげてどんちゃん騒ぎをしていた高級将校もそのたぐいのようです。日本では現在もその穢れを随所に残している様です。自分の喜びのために、国民の危機を忘れる黒川。人をひき殺して罪に問われない院長またしかり、屑人間の子孫が今の日本を牛耳っているので、ミーハー的で良くなるわけないと思います。テレビなどでも不作法をお笑いと勘違いしたり、底の浅い番組ばかりです。最近のテレビは次元が低いので見ない人が多い様です。 

既に天は日本人だけでなく、自分の利益のために地球を汚す人間全体への絶滅という天罰を、一億何千万年で跡形もなく消滅した恐竜のように、与える用意をしていると感じます。

作品にははっきりその人の心がでます

    作品には、はっきりその人の心が出ます(甲山洋画教室テキストより)

純然たる売り絵を別にして、写意(絵画などで、形を主とせず、対象の内容・精神・さらには画家の精神性を表現すること)をもち、また多少なりとも芸術の分野に踏み込もうとする者は、自分自身のこころを、そして人間性を裸にして衆目の真っただ中に露出する行為であるということを、努々忘れない事です。今まで述べてきたとうり、心の悪い人・心の汚い人・功利的な人・自己中心的な人・自分が正しいと思い込んでいる人・生意気な人・心の冷たい人・傲慢な人・他に優しくない人・狡い人・自分が他より偉いと思っている人・反省のない人・自分が馬鹿であることを認識しない人・自分より強い立場の者を怒れず弱い立場の者を怒ったり攻撃する人・苦しんでいる人を見て助けようとしない人・自分の幸せやじぶんの都合を優先する人、などなど塵の様な人たちは絶対に良い作品を生み出す事はありえないということは確定しています。そういう者どもが基本なり、なんなりを努力しているのを見ると、なんと無駄な事をすることか、まことに笑止千万と思わざるをえない事と言えます。なんとその様な愚か者の数が今の日本には多くなってしまった事か,五汚悪世(衆生汚・人心の資質の低下)の元凶は、こんな美しくあるべき分野にも発生をみているのでしょうか。資本主義社会は真の芸術家を生み出す力が大変弱いということが証明されつつある様な気がします。(完全に新たな社会形態が必要)経済の車輪にすり潰されていく精神性は、過去人間が犯してきた悪行からよりも、多くのダメージを受け、人間絶滅のカウントダウンが始まっている様にも思えます。真心の無くなった人間は生きている必要はありません。もう何度も言うようですが、穢れた心の人間は芸術に携わるべきではないのです。必要なものは技術ではありません、知識でもありません、その人の品格であり・真心であり・愛であり・謙遜であり・純粋さであり・献身であり・正義であり・その行動であり・心の浄化です。まさにこれらすべてです。花になり実になるのは、これらそのものが自己の中で昇華されて実を結ぶのです。技術と知識はそれが有る人にのみ所有する価値があります。作品にははっきりその人の心が出ます。だからどんなに頑張っても自分の人間性以上の作品は作れないのです。picturesgue(ピクチャーレスク)即ちイギリスの美的概念であるこの「絵のように美しく描写や表現が生き生きして真に迫っている」という言葉の様な絵が描ける綺麗な心を持ってください。(但し、英国も政治的には、バルフォア宣言、ローラット法、他、など大変悪辣です。)

 

Arthur Rubinstein  なんの衒いもなく飄々と弾いています。London Symphony Orchestra

の人々は非常な畏敬の念をもって合奏しています。魂に響く演奏に聞こえます。

これは技術を超越した神憑りのようです。日本の俺が俺がの人には到達できない境地です。

心が陶冶されて神に愛されて初めてこの品格が生まれるのでしょうか。アートも同じです。

 

Maria Callas    世界最高峰の歌姫  未だこの人を凌ぐ人を知りません。

しかし、純粋なアーティストであるがために権謀術数に長け、利益万能な穢れた俗人と関わりをもつと大変な不幸になります。周りも不幸になります。

     世のむなしさを知りたまい

     この霊廟で

     深い眠りに憩いたもうお方!

     もし天上に未だ涙があるのならば

     私の苦しみに涙し

     私の涙を 主のみもとにお運びください

     私の涙を主の御前にお届けください

 

              深い眠りに憩うお方が果たしているでしょうか?

     世にふるも更に時雨のやどりかな     宗祇

人生も良かったり悪かったりするという事だそうですが、もっと踏み込んでみると人生そのものが時雨を過ぎるのを待つ雨宿りに例えているとか。更に踏み込んで考えると、死ぬことは雨の中に飛び込むことになる。しかし、いったん生を受け魂を授かった者は死の中に極楽も天国も見いだせないように感じます。墓場に憩いは無いと思います。その証拠かわかりませんが、生まれ落ちた赤子はある瞬間満面の笑みを表します。丁度長かった死の苦しみの世界から解放された喜びの様です。初めて魂を得た子はそれほどではないかもしれません。百年死の世界にいた者より万年死の世界にいたものの方が生まれ落ちる喜びはより大きい様な気がします。

ここで、興味深い話を一つ。androidまたはロボットと幼い男の子の会話です。ロボットは子供に対して、「ロボットはスイッチを切らない限りずっと生きている。君は、ずっと生きていたいか?」と尋ねたら、子供は、「NO!,生きる事から自由になりたいこともある。」と即答しました。これは、実際の会話ですが、この子が初めてこの世に生を受けた子でないのならば、

大変な人物であるある可能性がある様な気がします。

 

 

 

Claudio Arrau

The 80th Birthday Recital      Beethoven ,Waldstein,Appassionata, Debussy  Liszt

ニューヨーク、エイヴリー・フィシャー・ホール

 

 

 

Avery Fisher Hall  (Seat Seats 2738)は立錐の余地なしの超満員です。観客はまさに固唾をのんでいるようです。これだけの人数なのに、物音一つしません。アラウの集中と観客が同化した瞬間でしょう。呼吸も最後まで両者同一を保たれています。観客のバックアップの力も素晴らしいものと思います。(但し、一曲終わった後の咳払いは凄いです。)

僭越ですが、私も以前、将棋の支部でのプロとの対局をさせていただいたことがありました。

多面指しで、みんな頑張って指されていたようですが、いつの間にか一人欠け二人欠けで自分一人になってしまいました。あんなにわさわさして賑やかだったのに、静まり返って誰もいない様です。「流石にみんな帰ってしまったのかな」と後ろを見た瞬間「ワァー」と声が出そうになりました。そう、だれも帰らなかったということです。真後ろに20人ぐらいの人が呼吸の音も聞こえないくらいで固まっておられました。結局、バックのエネルギーで私如きが局を頂き皆様に感謝致します。アラウ氏も素晴らしい演奏の裏にはそういう力も受けていたかもしれません。(でもやっぱり実力が違いますね。)この演奏を聞いた感想はアラウの前にいるのは

二者の存在、Beethovenと神。その二者に対して赤心を捧げている祈りのようにも感じます。

観客はその崇高な儀式に身も心も委ねて同化している。素晴らしい瞬間です。観客が少ないので「おれは歌わない」と怒って逃げてしまうような、日本人のへっぽこアーティストとは、あまりにも次元が違いすぎます。アラウならたった一人の観客でも、全力を出し切るでしょう。

ここで、また思い出したことがあります。だいぶ前のことですが、沼津市の公会堂(旧)に、

ショパンコンクールに優勝された方が来られたことがあります。(二位がアシュケナージです。こう言うと誰かわかってしまいますが)確か奥の方で拝聴しましたが、演奏の中盤に差し掛かり、その時演奏家が私の方を、ぎろりと睨みました。(1~2分)聴衆の程度を探られていたような気がします。その次の瞬間、演奏が変わったように思われます。明らかな差です。この人も世界の頂点に立つ驚くべきテクニックを持っていますが、未だその名をあまり知られていません。コンクールでも裏があったそうです。やはり一番大事なことは心でしょうか。

(三界唯一心)

 

 

 

This soldier seems to be known among foreigners over Japan.

That's right. Marshal Togo, Commander of the Allied Fleet, who annihilated the Baltic fleet.

["The Empire's fate depends on the result of this battle,let every man do his utmost duty." ジム氏の文中より](In this battle,the empire of the Great Japan Empire is decided. Make every effort and encourage your efforts.甲山訳)

Every time I see this picture, He seems to like wearing many medals.

If the child says "Please give me one piece".Does he say "Dame! Absolute Dame!"?

Seeing this portrait makes me feel calm .I hope that people like you will be produced again in Japan. The reason why wrote in English is that the Japanese people today ar not warthy of respect. Rather,people with Japanese virtues seem to be among foreigners.  Only this person is shining.  However,after that the top the Gapanese army will steadily become foolish.

Copies of original works in our Atelier

【こちらの方は日本より外国で人気がおありの様なので、横文字で書いてみました。)

 

 

木戸孝允  1833-1877

最後に、私の子供の頃から今に至るまで、最も好きな詩を贈ります。

今の日本にも通じていることと思います。身が震えるほど心に響く詩です。

木戸孝允は明治二年大久保と共に従三位に叙せられ千二百石を賜った、されど彼は

「身命を国の為に捧げるのは国民の本文である、今日の急務は功臣の表賞より戦没者や負傷の家族を慰め救うことである」と力説したが容れられず請願書を書き辞表を奉り、箱根の山中に籠られた。その時点で彼は、自分だけ良い思いをすればよいという今の劣等国民の発生を予見されていたかもしれません。

 

    偶成    木戸孝充

  一穂寒灯照眼明  沈思黙座無限情

  回頭知己人已遠  丈夫畢竟豈計名

  世難多年万骨枯  廟堂風色幾変更

  年如流水去不返  人似草木争春栄

  邦家前路不容易  三千余万奈蒼生

  山堂夜半夢難結  千岳万峰風雨声

 

 

笹川鎮江先生

 この詩では、笹川鎮江先生の素晴らしい吟詠が残っています。(コロムビアレコード)

 

 

 

 

作品集